高橋ひろ子『無言にさせて』(砂子屋書房、2022年)
花山多佳子と言えば、その著書『木香薔薇』(砂子屋書房、2006年)で
大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり
とうたった歌人であり、永田和宏『某月某日』(本阿弥書店、2018年)に
さあ行くぞ外は月光 けふはなにも忘れてゐないか花山多佳子
とうたわれたその人であろう。固有名詞「花山多佳子」を読むとき、わたしは咄嗟にこういう二首を思い出す。
うたは花山多佳子から手紙がとどいた。その結末におどろく。「ボールペンが出なくてこれで終はります」と(いうようなことが)書かれてあったのだ。
ボールペンで手紙を書いて、インクが切れて書けなくなった。あるいはインクが詰まってそれ以上出なくなってしまった。振っても出ない、押しても出ない。
そんなとき、手元に予備のボールペンがあるわけでもなく、であるならばと新しいのを買いに行くわけでもなく、そこで切り上げて手紙を結んだのである。つづけて書くべきことがあったかもしれない。いい加減だなあ、とおもう。そしてすなわち深く納得する。
しかし手紙というもの、「ボールペンが出なくてこれで終はります」くらい率直であるほうが、かえっていいような気もする。ごく自然な姿が、そこには映るだろう。
ふつう「書かれて」というふうに助詞の「て」があれば、つづけて「どうする」と動詞がもうひとつ来るところである。しかしそこのところは省かれて、うたは「花山多佳子の手紙」と括られている。このいささか乱暴なぶつ切り感も、この一首においては手紙のそれと連絡するようで、どこかたのしげに見える。
くりかえし読みながら、あるときはその迫力におされ、またあるときはもの悲しさにさそわれながら、つい笑ってしまう一首である。