高橋睦郎『狂はば如何に』角川文化振興財団,2022.10
まるで大木のような一首。
「うつせみのわれ」、もちろんこれは「現し身の〈私〉」という意味ですが、
一瞬、「われ」が蝉の抜け殻と同化しているかのように錯覚してしまいました。
おそらく、これは作り手による巧みな操作。きっとそのために、
この言葉のすべてをひらがなに開いて表記しているのでしょう。
この操作によって、「うつせみ」の元の言葉の持つ意味に加えて、
この世にいる何ものかとしての存在感はぐっと薄まり、
「われ」ははかなく、透きとおった存在感を放つようになります。
さらにこの「われ」は、歌の中心に「何者の墓として」佇むことで、
生き物のなまな存在感を完全に消し去ってしまいます。
しかし、ここで突如現れる「ほほゑみ」。無色透明の〈私〉にとつぜん表情が与えられています。
さらに、その微笑が「若きら」に向けられていることを語り手が明かすことで、
歌の中心に佇んでいた〈私〉は、「若きら」と対峙し、対比される存在として、さらに大きな時空を有するようになります。
わたしたちは〈私〉の、ゆったりとした、それでいてはかなげな、さびしげな「ほほゑみ」を思い浮かべるでしょう。
幾枚ものペルソナを変えているようでありながら、
じつは〈私〉は最初から「若きら」の前で微笑みをたたえていて、じっとそこを動いていない。
この「じっとそこを動かない」様子は、「墓として」という比喩によって、わたしたちに強く印象付けられます。
まるで大きな木のようだという感想は、こういった時空の蓄積から生まれたのだと気づくのでした。