坂井修一『古酒騒乱』(角川文化振興財団、2019年)
このあいだ久しぶりに「お湯割り」というものを飲み、そのときに「黒霧島」を飲んだ。焼酎である。いつだったか宮崎へ行ったとき、「焼酎はお湯割りのためにあるんですよ」と窘められたことがあったが、そういうものかと思い出しながら飲んだのだった。
うたの「黒霧」はこの「黒霧島」、「赤霧」は「赤霧島」のことだろう。霧島酒造というところがつくっている焼酎で、白霧島とか茜霧島とかいろいろある。妻とわれとふたり飲んで、それぞれ別のを、しかし霧島という点では一致しているところに、絶妙なバランスを感じる。
世のこと、ひとのこと、あちらの話からこちらの話まで、話題は尽きず、語りやまず。充実の夜である。「世ごと」というからいくらか俗っぽい雰囲気もある。
ただ、それが必ずしも、「たのしい」とか「おもしろい」とか、そういうほうばかりへも向かわない。もうすこし、おのずから、といった感じがする。遠慮会釈のない関係というか。そこにある種の心地よさが伴うのだろう。くりかえしと対比のリズムのなかに、詠嘆の「も」がじんと響く。
妻は「呑む」われは「干す」、この飲みようのちがいにもたのしみがある。「飲む」という行為のもつ、さまざまな表情が、ここに交錯して映るようだ。
この赤霧や黒霧は、お湯割りだったかどうか。もうすぐ立冬がやってくる。