時本和子『運河のひかり』(砂子屋書房、2022年)
耳をつかんでウサギを持つ、という場面を想像する。「抱える」でも「持つ」でもなく「下げる」であるから、死んだウサギであろう。いつのことか、随分むかしのことかもしれない。たとえばウサギを狩って食べた日のことをおもいだしたとか。
仔細はわからないが、確かなのはそのときの手の感覚である。下げ「し」感覚が「よみがへる」であるから、わたしのなかにそれは確かにあって記憶され、保存されていた。そして今、ふと思い返されたのである。
なにゆえだろう。「春の夕べ」のもついかなる雰囲気がそうさせたのか。
結句「よみがへる」をふたたびみたび読むまでは、あるいは「春の夕べ」そのものをとらえた手の感触をうたったものかとおもった。生きものの重たさを手に提げて、そのあやうさと、手を伝う生あたたかい感触が、どこか春の夕べの空気を捉えているようにもおもうのだ。
そういう春の夕べであるからこそ、その空をつかむ手のひらに、かつての感覚がすべりこんできたのかもしれない。遠くはなれていく過去が、瞬間、現在へなめらかに接続し、現在ということを不安定なものにする。
死んだウサギの感触を、鑑賞者のわたしの手は知らない。あるいはすぐに冷たくなってしまうのだろうか。
わからないところは多いながら、かつての感覚を手がおぼえていて、それがきっかけもなく突然よみがえる。そういう春の夕べを、しかしそのことはわたしも知っていることのように感じる。身に覚えがある。その生々しい体感を、どこかおそろしくおもいつつ読んだ一首である。