島田幸典『no news』(砂子屋書房、2002年)
愛されていいのか、というこの問いを読むとき、思い出すのは岡本真帆『水上バス浅草行き』(ナナロク社、2022年)の次の一首である。
ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし
こんな「ずぼら」なわたしだけれど、それでもいいの? と問うこころは、立場やニュアンスを変えながら、しかし今日のこの一首にもかようところがある。
「愛されていい男」なのか、おれは、と自分自身に問うている。あなたではなく。こんな奴が愛れてもいいのか、愛される資格があるのか、と問うとき、そこにあるのはどんな感情か。
ひとつは不安だろうか。愛されることに慣れていないと、愛されるのはすごく怖い。自分に自信がもてない、というのもあるかもしれない。あるいは自嘲。そこに照れくささや、ほのかな高揚感も伝う。
鼻風邪ひいて、おさまらぬうちに梅を観にきた。寒い外である。いい加減と言えばいい加減。それが自己認識としては「暇な奴」になるところに、キャラクターが立つ。だらしないとも少し違うが、ひとりの人として、男として、なすべきことを持たず、どこか意欲のない感じが、愛されるに値しないとおもわせるのだろう。
ぷらぷらとした上の句の光景から、一転してぐっと力のかかった言葉はこびの下の句へ。その対照的な流れに惹かれる。みずからに湧く未知の感情を手づかみで差し出すような、矛盾やアンバランスのなかにこの人が確かに存在するような、体感しるき一首である。