フラワーしげる『ビットとデシベル』書肆侃侃房,2015.07
木枯らし一号が吹き去って、とたん冬の気配が増してきたこのごろ。
装いを厚くしながら、この歌を思い出していました。
作中の主体が対峙しているものがなにものであるのかは、ほんとうのところわからない。
「きみが十一月だったのか」、おそらくは作中の主体が発したであろう言葉を、語り手がなぞって発話することで、物語が動き出しています。
「そういうと」、作中の主体に話しかけられた「十一月」は何も言わず、微笑みで以てそれにこたえます。
「微笑んだ」ではなく「少しわらった」とあることで、動詞にかかる「少し」によって付与される間と、
真顔であった「十一月」の顔の、少しずつほころんでゆくような様子まで思い浮かぶようです。
そして、これが短歌として在ることのふしぎ。
七五調のととのった韻律を刻みつづけることからはずれ、自由律という名のもとに生まれた規律を挙げるとすれば、
例えば、二度と同じ調子を繰り返さない、ということでしょうか。その都度、新しい調べを生み出して、うたの世界に送り出している。
この、「二度と同じ調子を繰り返さない」、「その都度、新しい調べを生み出す」というのは、まるで日本における四季のよう。
暦というものはきっぱりと定められたものでありながら、まったく同じ季節は二度とやっては来ず、
日本独自のものとされていて、古来よりずっと続いているもの。
そういった想像すら、この歌のなぞの存在はわらって聞いてくれるような気がするのは、
ひらがなの多用、「十一月」と「少」以外はすべてがひらがなで開かれていることで、聞き手の柔らかさを感受することができるからでしょうか。
そんなことを考えながら、今朝、ひさしぶりに白いセーターに袖を通したとき、
鏡のなかでふと目があったのは、もしかするとわたしではなかったのかもしれない、と、
ほんのり愉快な気持ちになったのでした。そうか、きみが十一月だったのか。