夜の廊に遭へる吾妻に「こんばんは」といへばほんとに「こんばんは」の気持してくる

佐藤通雅『岸辺』(角川文化振興財団、2022年)

 

夜、家の廊下だろう。たまたま妻とすれ違った。とっさに「こんばんは」と口にする。朝「おはよう」と言うのとはいくぶん事情が違う。久しぶりに会うわけでもなく、一日ともに過ごしたのであろうから。

 

ただ、なんとなく状況がそうさせたのだろう。夜の廊下は暗かったかもしれない。「遭へる」であるから、遭遇の感がある。ふいに会って、ちょっとびっくりした、そういう心境だろうか。

 

あるいは「おやすみ」と言って別れるのとも違う。おそらくまだ夜はつづく。だからほんとうに、すれ違ったときの挨拶として、「こんばんは」と言ったのだ。その状況を穏便に過ごす、とっさの判断である。

 

夜の廊に/遭へる吾妻に/「こんばんは」と/いへばほんとに/「こんばんは」の気持してくる

 

吾妻は「あづま」、わが妻。するとどうか、「ほんとに『こんばんは』の気持」がしてくるという。考えて言ったことばではないが、「こんばんは」と言ったことで、それにふさう心が起こったのだ。

 

ふだん人はことばによって考える、とはよく言うが、まさにことばがあって、それに促されて心がうごいた。しかし、なんとも不思議な体験である。

 

「こんばんは」と言ってしまったこと、そしてそれによって、ほんとうにそんな気持ちになってしまったこと。大幅な字余りが、そのおどろき、あるいは興奮をあらわしているようだ。

 

「『こんばんは』の気持」とはいったいどんなものであろうか。このあたりの、なまの感触あることばづかいにも、惹かれつつ読んだ一首である。

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