千葉優作『あるはなく』(青磁社、2022年)
水のうえにその葉浮かべて睡蓮はある。夏の午後、いよいよゆたかにその葉ひしめきあい、おのずから水面全体を覆うようになる。水はひかりを失い、すなわち「失明」ということだろう。
うたはこの「失明」を、「こんなに明るい」と言う。睡蓮のみどりに夏の日差しが反射して、空間全体はいかにもまばゆい。うたを読むわたしも、その明るさをうたがいなく受け取りながら、おもわず「こんなに明るい」にうなずく。
しかし、光を失う、明るさを失う水の側にたてば、時間をかけてなくしていく光、すなわち「視るちから」の、その先にある「失明」は、「こんなに明るい」と言えるようなものではないだろう。睡蓮の葉群を境にして、こんなにも明暗へだてられていることに、今更ながらくらくらする。
歌集には目をうたって印象的なうたが他にもあって、
迎へ火がひとみに映るたまゆらをはるけき死者は眼を借りに来る
こころに歌のあふれてやまぬこの夕べ泉のやうな目を瞑りたり
など、とくに惹かれる。おもえば睡蓮の「睡」にも目があって、たとえば池だろうか、その水の総体がひとつ眼となって、この世を仰ぐような、それを睡蓮の葉がことごとく閉ざしていく「明るい」季節、夏という季節のどこかおそろしい反面を見るようである。
歌集に通底する「喪失感」や「孤独感」はだからここにもあって、「こんなに明るい」なかに、だれにも知られない「失明」がある、そのことに、こころを寄せるような一首とおもう。
なお、睡蓮の「蓮」は、歌集では二点しんにょうで書かれている。