なみの亜子『鳴』(砂子屋書房 2006年)
おしっこをしようとしゃがむとき、女の陰は地面に近い。近いというより、草なんぞが生えていたら、もうすれすれだ。良いとか悪いとかではなく、そうできている。この、そういうふうにできているというところが、おそらく、大切な歌なのだ。
「陰」と「地」は限りなく引き合う。それは当然で、二つは同質である。
ほの暗いものとして。
何かを生み出すものとして。
「ほと」は窪んだ土地を指す。
また、古事記では、女神イザナミが火の神を生んだところが「ほと」—火陰。だから、「ほと」は熱でもある。ほとぼり、ほてり。東北に暮らす私は「ほどる」=あたたまる という方言に親しい。
陰—地—女—温。原始的な回路の中に歌が立ち上がる。
ところで、尿は温かいものだけれど、普段、それを感じないのはなぜだろう。たぶん、意識がそこには向いていないのだ。排尿は何かの合間に(時にばたばたと)行われ、頭は別のことに囚われている。
しかし、尿の古い言い方は「ゆまり」であり、これは、湯を放る、排泄するという意味だ。温かいものを放つという感覚は、「ゆまり」という言葉を生み出すほど、確実に、あまねく、存在していた。
この歌が作られたのは、作者が吉野へと移住した前後だろうか。その土地が、このようないにしえの感覚へと接続させたのかもしれない。静かな、しかし、圧倒的な気配の中、内なる温かいものを差し出す。隠すべきところを自らひらき、地という同質のものに向かって、熱をほとばしらす。
私も、小さいとき、よく庭や畑や山でおしっこをした。ぺろんとお尻を出して。冬だって、春だって。そのときの寄る辺のなさと、同時に湧き上がる、なんとも言えない心強さを、今も覚えている。