ぬばたまの夜更けにひらく「花とゆめ」誤植をひとつヒロインが吐く

斉藤真伸『クラウン伍長』書肆侃侃房,2013年

 

「花とゆめ」は白泉社が発行している少女漫画雑誌。深夜に「花とゆめ」を読んでいたらヒロインの台詞の中に誤植を見つけた、一首が描いている状況はそのようなものだろうか。

「ぬばたまの」という枕言葉が「夜更け」を導いて、「ひらく」が「花」を導く。「夜更け」と「ゆめ」も縁語のような距離感なので、上句に並んでいる語は強固に結びついているようにも感じられるが、情景を想像すると少しだけ個性的だ。
真夜中に「花とゆめ」を、それも単行本ではなく雑誌を読んでいる。きらきらとしたイメージのある少女漫画雑誌を真夜中に読み、夜の静けさの中で雑誌を捲る音だけが聞こえる状況は、「花とゆめ」という語のイメージからは少しだけずれるような気がする。それは「ぬばたまの」から「花とゆめ」の落差によっても強調される。暗と明のコントラストはもちろん、古典和歌から現代までの時間的な距離も感じてしまう。
この「花とゆめ」が単行本である可能性はゼロではないが、作品名ではなく雑誌名が挙げられていることでまずは雑誌を想起する。下句で書かれる誤植の存在が、誤植修正の機会が少ない雑誌である可能性を少しだけ上げる。多種の少女漫画が詰まった雑誌であることで上句の振り幅は大きくなるし、雑誌をめくる音や手触りも感じられる。「花とゆめ」は雑誌の方がよいな、と思う。

下句では主体による誤植の発見が提示されるが、誤植を見つけたという表現ではなく、誤植をヒロインが吐いたという表現が選ばれている。誤植は現実に存在している人間、雑誌を作っている人間の過失だ。誤植を発見したことによって、主体は漫画の世界から現実の世界へと連れもどされてしまったのかも知れない。少女漫画の世界から、真夜中の現実世界への振り幅は、上句に存在する振れ幅とどこかで呼応しているようにも感じられる。「ヒロインが吐く」という表現から、漫画の世界に幾分か魂を残している主体を感じる。

主体が読んでいたのは「花とゆめ」なのだから「花とゆめ」は動かない。それはそれでよいし、もしここが「りぼん」でも、「マーガレット」でも一向にかまわない。だけれども、主体が読んでいたという事実を超えて、一首の短歌の中で「花とゆめ」という名詞が効いていると強く思う。

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