大松 達知『アスタリスク』(六花書林 2009年)
サッカーワールドカップカタール大会の記憶も新しいけれども、この歌にはどきりとさせられる。冒頭の〈ドイツ人対ポーランド人〉でもう、重い何かが漂ってくる。
なぜ、ドイツ人とポーランド人か。
そもそも、ドイツ対ポーランドという構図は、第二次世界大戦の引き金となった「ポーランド侵攻」を連想させる。ドイツと、その同盟国であるスロバキアがポーランドに攻め入ったので、ポーランドの同盟国だった英・仏がドイツに宣戦布告した。そこから、第二次世界大戦が始まった。(とかつて習った……。)だから、大きな戦いがその先に待っているような、ひどいことに発展していくような怖さを含んだ歌の入りなのである。
加えて、「ドイツ人対ポーランド人」という、「人」 民族としての区分がわざわざされていることに立ち止まれば、思いは、ナチス・ドイツのホロコーストへと至らざるをえない。ポーランドにはアウシュヴィッツの強制収容所など、多くの収容所が作られたし、非ユダヤ系のポーランド人も、たいへんな数、命を奪われたという。
そして、「人」となれば、受け取るものは、より生々しい。その汗、息づかい。肉体と肉体によるせめぎ合いが感じられてくる。
基本的には、発見の歌ではある。結句の「サッカーなれど」で種明かしがされる仕掛けで、ああ、スポーツの話だったか、とほっとはする。するけれども、そのあとで何か苦いものを覚える、そういう印象だ。
だが、この「印象」は、初読では、より軽いものだった。機知に富んでいると感心した。が、今読むと、どうしても、「ドイツ」や「ポーランド」の向こうに、「ロシア」や「ウクライナ」という単語がちらついてしまう。また、「日本」という単語も。
スポーツは何かの代償行為なのか。選手のみならず、サポーターの、観客の、あの闘争心は、どこから湧き上がるものなのか。
歌はその時々の世に置かれながら、読み継がれながら、さまざまなことを考えさせる。