伸び出でしばかりの太き早蕨を山よりもらふ蒔かずにもらふ

森田アヤ子『かたへら』現代短歌社,2020年

結句が印象的だ。「山よりもらふ」も「蒔かずにもらふ」も事実の提示だが、前提が異なる。「山よりもらふ」は山で蕨を採ったという事実のみが提示されているが、「蒔かずにもらふ」の裏側には、〈蒔いて育てる〉という営みが張り付いている。「もらふ」という措辞にも、自然に対する敬虔さがにじむ。
掲出歌は巻頭歌。〈蒔いて育てる〉という営みは歌集の中で繰り返し詠われている。

日の光に目凝らし稗を引きてゆく日翳る早き谷あひの田に
草刈機の柄の振動の残りゐる両の手ほぐす遅き湯のなか

水田には稗が生える。稗が大きくなってしまうと種が飛び、どんどん増えてしまうし、近隣の田にもおよんでしまう。大きくなる前に稗を抜いてしまわなければならないのだけど、稲に紛れた稗はよく見なければ抜き漏れができてしまう。谷間に田があるため日照時間が限られている。だから、日の光があるうちに目を凝らして稗を抜くのだ。
土手にある草は草刈機で刈る。草刈機を半日も操作していると、持っていた手のひらに微かなしびれのような違和感が残る。その違和感はしばらく取れなくて、ともすれば違和感そのものに慣れてしまう。風呂に入って、微かに違和感の残った手のひらを、(この痺れは草刈機だな)などと思いながら湯にほぐす。

このような農業がモチーフになっている歌が多く歌集に収められている。それは農業体験というような瞬間的なものというよりは、時間的な堆積の上にある経験に根ざしている。数十年の積み重ねによって〈当たり前〉になった感覚をあらためて一首に詠み込むには、ある部分ではそれが〈当たり前〉でないという自覚が必要になるだろう。農作業とともにある暮らしの中、そこに散りばめられた短歌になる要素が掬いとられていて、それが私の中に強く残る。

じやがいもの花が咲きたり便りせぬ子よ奨学金は返してゐるか
つくづくと草は引くもの渾身の力もて引く土用の藜
錆厚き母の古鎌研ぎあげて使はずもとの在り処に戻す
全身に振動伝へチェーンソーが木の歳月を通過してゆく

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