木村 輝子(「塔」1998年9月)
小学校の朝の場面。
教室に行くと、いるはずのザリガニがいない。水槽の中のザリガニの数が減っている。
たとえば、昨日までは三匹いたのに、今は二匹だけ。
これはどういうこと?
逃げたのかな。
でも、水槽にはふたがしてあるよ。
手掛かりを探そうと目を凝らしてみると、ザリガニの爪や鬚の残骸が、水槽の端の方に沈んでいる。
……食べられたんだ。この大きいザリガニに。
共食い、というのは非常にショッキングな所業だ。はじめて、そういうものがあると知ったとき、同じ生き物を食べることへの忌避の感覚がどっと押し寄せる。
だが、ある種の生物には往々にして起こりうることであり、それを知識として理解した後は、かえって好奇心がかきたてられるしくみとなろう。
「朝のパニック」は「いきいきと」ひろがる。ここが断然面白い。見たい。知りたい。教えたい。残酷で容赦のない行いだからこそ、惹きつけられる何かがあるのだ。
登校する他の子へと、次々にこのことは伝えられる。
ザリガニがザリガニ食べたんだって。
ええ!? ほんと?
気持ち悪いし、怖いことだけれど、なんて興味深いんだろう。
教室のなかで知る生と死の衝撃がある。生のための死、死の上に立つ生の。
その衝撃はいつか、思索へと繋がっていくのだろう。
朝顔の咲きたる朝に一匹の親ザリガニは爪だけ残さる
夕されば子らの目のなき水槽に時間くいくい揺りて目高は
『なづな鳴る』
新しい一年が始まった。