ひるめしにくひし筍ふたきれがうまかつたなと夜半おもひいづ

今井聡『茶色い瞳』六花書林,2022年

昼食に食べた筍が美味しくて、夜にふとそのことを思い出した。内容は簡潔で、そういうことあるよな、となんとなく思う。
筍がどんな料理だったのかは明示されていない。ただ、「ふたきれ」だったことは明示されているので、筍ごはんや汁物のような数量が判然としないものではないような気がする。焼き筍や天ぷらのようなある程度のサイズがあって、メイン感のあるものでもないだろう。どちらかと言えば、例えば焼き魚定食のようにメイン料理が別にあって、筍は小鉢にちんまりと盛られた煮物のような様態で存在したような気がする。あるいは、誰かと飯を食べて、ふた切だけ筍をもらったのかも知れない。
いずれにせよ、昼に食べた筍は、メイン料理ではなさそうな気がする。副菜が妙に印象に残ることは確かにあって、期待していない分余計にうれしかったりする。港町の寿司屋のあら汁とか、むかし近所にあった蕎麦屋の自家製糠漬けとか、そういうのだなと、思い出す。
上句において漢字表記は「筍」のみとなっていて、記憶の中から筍が浮かび上がるような印象だ。〈昼めしに食ひし筍ふた切れ〉よりも、「ひるめしにくひし筍ふたきれ」の方が筍に重心がある。また、下句においても「夜半」のみ漢字表記が選ばれていて、食べたその時点ではなく、筍のことを思い出している夜の時点に重心があって、時間の経過を感じる。時間を経て残った筍の記憶がより強く感じられる。

掲出歌の収録された連作には「晴れながら吹く風つよき春昼をしろき羽根ひとつ窓より入り来」という歌も配されていて、年中食べれる水煮の筍ではなくて、ちゃんと季節のものなんじゃないかなと思う。ほのかに野の味のする筍の煮付けや若竹煮が定食に添えられていたら、それはうれしい。ただ、ずーっと記憶に残り続けるかと言えばそんなことはなくて、時間の経過とともに霧散していく性質のものだろう。

この一首によって筍の記憶は残る。そして、これを読んだ読者は、読者にとっての「筍ふたきれ」を思い出すのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です