擦れちがふすべての靴の裏側がやさしく濡れてゐるといふこと

光森 裕樹『鈴を産むひばり』(港の人 2010年)

 

 春は割合に、雨が多い季節だ。春時雨、花散らしの雨、催花雨等々、春の雨を表す多彩な言葉もある。

 激しくは降らない。しとしとと、埃っぽい空気を濡らし、潤いを与えてくれる。木や花たちには本当に必要な雨なのだろうと思う。

 

 こちらの歌では、舗道を人々が行き交っている。

 雨、なのだ。

 「雨」という言葉はどこにもないけれど、雨が降っている、もしくは、雨が上がったばかりなのである。

 だから、道は濡れていて、その道を歩いてきた靴の裏側も濡れている。

 しっとりと「やさしく」濡れている。

 待っていた、あたたかな春の雨。その嬉しさが、「やさしく」という言葉を引き出したのだろうか。

 

 さて、もうひとつの読みに向かうために、「濡れてゐる」という言葉を重く見ていきたい。

 「濡れてゐる」ということは、涙や悲しみ、悔しさの存在を連想させる。古典からの伝統的な約束事、「濡れる=涙」ということや、枕を濡らす、濡れ衣等の慣用表現も、意識のうちにある。

 

 擦れちがう人々は、靴を履いてどこかへ向かっている。会社や学校、買い物、病院……。表向きには、皆、顔をあげて、ちゃんと歩いてはいるけれど、その裏側には、ときに悲しみや悔しさを抱えていよう。それらを受け入れようとしながら、なだめながら、揺れながら、けなげに日々を送っていよう。「擦れちがふすべての靴」、その「裏側」は、社会と繋がりながら生きざるをえない人間、その心の象りなのである。

 

 そんな人々を慈しむ、「やさしく」という一語。

 濡れていますよね。わたしの靴だって濡れています。何とか、歩いて行きましょう。

 見えない靴の裏側を思う眼差し。それこそが、「やさしく」感じられる。

 

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