ちゃんと歩いてここまで来たってわかるから靴は汚れているほうがいい

上澄眠『苺の心臓』 青磁社,2019年

土や埃にまみれ、雨を受け、靴はだんだんと汚れていく。〈履きつぶす〉なんて言葉があるように、地面に接する靴はだんだんと汚れていって、くたびれていって、洗っても駄目な様態になってしまい、最後は捨てることになる。お気に入りの靴が汚れると気分は暗くなるし、なんとなく雨の日には古い靴を選んだりしてしまう。靴が汚れるということは、来るべき靴の死を感じさせ、あまりポジティブな印象はない。

「靴は汚れているほうがいい」は、そんな考え方とは逆をいく。靴はきれいな方がうれしいとは思いはするが、こうやって言い切られると小気味がよくて、そう言われればそうかも知れないと納得しそうになってしまう。そして、小気味よい言い切り以上に、その妙な納得感の源泉は上句の説明にあるだろう。
なぜ靴が汚れるのかと言えば、当たり前だけれど、自分が履いてきたからだ。靴の汚れはこれまでの行動の帰結であり、ある意味ではその行動を可視化するものでもあるだろう。だからこそ、まっさらな新品の靴よりも、いくばくかの汚れがそこにあった方がよい。その考え方には一本筋が通っているような気がして、きれいな靴がよいという一般論を乗り越えてゆく。

もちろん、この一首そのものが比喩としても作用するだろう。「ここまで来た」という言い回しが一首の抽象度をいくらか上げるので、生活実感ではなく、ある種の人生論として一首を読む回路が生じるように思う。例えば、靴は〈私〉の人生そのものであって、汚れがあるからこそ、ここまで生きたと実感することができる、というように。しんどい経験や辛かった出来事など無いにはこしたことはないが、それを乗り越えた後で振り返ると、その経験や乗り越えた自分が妙に愛おしく思えることは確かにある。それでもやはり苦労は苦労であって、それは「汚れ」という措辞と重なっていく。

一首には、靴の汚れという生活にべったりとした要素があることで、生活実感として読む回路も存在し、単なる箴言とはなっていない。一首は、人生論としては納得感があるが、同時に靴論としてはいくばくか意表を突いている。その落差もこの一首の魅力のひとつだろう。

靴も人間も、汚れたり傷を負ったりしながら終わりに向かって進んでいる。「ちゃんと歩いて」、「いるほうがいい」という言い回しからは、そんな不可逆な時間が肯定されているように感じられて、この一首を読むと少しだけ安心してしまう。

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