読みかたを知らない名前を書きうつすときころげでるいくつかの顔

土井礼一郎『義弟全史』短歌研究社,2023年

「ころげでる」がちいさく過剰だと思う。
読み方がわからない名前を書きうつす状況は現実にあり得る。一度も発音したことの無い名前。それは漢字かもしれないし、異国語なのかもしれない。眼前には字面だけがあって、主体はそれをみて、なにかに書きうつす。私的な状況なのか、仕事中かはわからない。なんとなく下句に引っ張られて人名だと思ってみるが、違うかもしれない。
その状況で、いくつかの顔が思い浮かんだ、とりあえず下句をそう取ってみる。理屈は通る。ただ、「ころげでる」が不思議な印象を生んで、いくつもの顔が転がっている像が結ぶ。顔の出所はわからないが、様々な表情をした顔がごろごろ転がり出てきて、それが「名前」と結びつくような、つかないような、そもそも「名前」のことなどもう忘れらられているような。微妙にコミカルで、微妙に怖い。
三句切れかと思わせながら連体形で下句に繋がって、「とき」の二音で軽く切れる構成には、そこで突然世界が切り替わる印象がある。理屈が通る世界から、理屈が通らない世界へと切り替わった気がして、そもそもなんでこいつは名前を書き写しているのかなどと思いはじめて、理屈が通っていると思っていた上句も不穏な感じがしてくる。

かくも人は同じ高さの家ばかり建てるねすべてに鳥を棲まわせ

上句はなんとなく理屈が通ってしまう。ハウスメーカーが開発した分譲地なんかをイメージすると確かにな、と思う。ただ、「すべてに鳥を棲まわせ」と言われたとき、たとえそれがなんらかの比喩であろうとも、家すらも均一的な現代日本というイメージの上句と、鳥が棲むというイメージの齟齬に小さく戸惑う。
そして、「すべてに」が過剰だ。そもそも、一首は「かくも人は」から入っているので「棲まわせ」の主語は「人」あり、「すべて」にはダメ押し感がある。そこには、「鳥を棲まわせ」には例外などないというような圧を感じる。
「かくも」と文語調で入った一首が、「建てるね」と突然話し言葉の句割で切れて、ここに世界の転轍点があるような気がする。〈住まわせ〉でなく、「棲まわせ」であるのも日常の世界ではない印象を強める。

東京に無数のけしごむ立てられてすきまを走ってゆくおとなたち
スミレほどなちいさき夫婦は公園のヒマラヤスギのなかで交わる
守るべきものみな土の中にある三月ここは蟻たちの園
てのひらにおとうとの棲む丘はあり手を叩こうとすれば手をふる

歌集中には喩の世界で完結している印象の歌も多い。〈人間〉のサイズ感はかなりの振れ幅があるし、虫と〈人間〉との境界も曖昧だ。それでも、現実と比喩の転轍点を幾度も経ながら歌集を読み進めていくと、今イメージしている像が現実なのか、比喩なのかだんだんと混濁してきて、一首一首が奇妙な説得力を持ちはじめる。

喩の世界も、現実の世界も、結局のところ不条理であることには変わりはない。喩は現実の不条理をデフォルメしているはずなのに、それが現実と重なっていって、ひとりの読者として、喩の世界を歩いているような気がしてくる。

人が家に棲まわせているという鳥。鳥は虫をついばむ。うちなるものに喰い殺されぬように生きていきたいものだなと、歌集を読みながら思ったりもする。

この部屋を出ればすべてのいきものは大聖堂にすこしちかづく

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