やいちくんと巡るぢごくのたのしさはこの世のたのしさに似てゐます

辰巳 泰子『恐山からの手紙』(ながらみ書房 2000年)

 

 はっと息を呑む一首だが、先に明かせば、この「ぢごく」は恐山にある。

 恐山は、青森は下北半島の霊場で、火山地帯につき、岩石の間からガスが噴き出し、草木が枯れ、この世ならざる荒涼とした風景が広がっているところだ。

 そこに、「地獄」と名付けられた箇所が一〇〇以上もある。「賭博地獄」、「金堀地獄」、「女郎地獄」、「重罪地獄」……。恐ろしい。恐ろしいが、こんなにあると感心してしまう。人間にはいろんな罪があり、いろんな地獄があるのだと。

 掲出歌は、その恐山を「やいちくん」とそのおかあさんが訪ねた、羇旅の一連にある。

 

  恐山にはおかあさんとやいちくん ただ一つづつの石を積みをり  

 

 恐山には死者の魂が集まると信じられているので、参る人々は、多く、個人的に、会いたい死者、慰めたい魂を有している。

 そこの賽の河原で石を積むことは、死者の助けになる。大切な死者へ心を込めて、「一つづつの石」を積むのだ。

 そのとき、この歌ではまるで、恐山に二人だけしかいないような感じがしている。「恐山には○○と△△」という構文が、限りなく周囲の気配を消して、二人の存在だけを浮き上がらせているからだ。

 掲出歌でも「やいちくん」とわたしの二人の結びつきが強く感じられる。やいちくんと巡るからこその「たのしさ」なのだ。「ぢごく」と、それに似る「この世」の、荒涼としたものも、凄絶なものも存外にたのしいのは、やいちくんが一緒だからなのだ。それは本物の「地獄」へ行ったとしてもそうなのではないか  いや、「この世」こそが地獄であるか  「ぢごく」が恐山のそれとわかってもなお、歌はそのような含みを持つ。そして、「たのしさ」と言い切ったその気概を噛み締めたくなる。

 

  やいちくんとはぐれつちまつたかなしさをお地蔵さまが見てくれてゐます 

  やいちくんとまた逢ひたいとくるしさは永劫あつてもよいのです     

 

 やいちくんとちょっとはぐれた場面である。だが、そこに、宿命的な「永劫」の愛が詠われている。

 

 いや、「やいちくん」は現世の子なのか。ふと、そんな思いも兆す。ここが恐山であるならば。そしてやいちくんが幼く、まだ人間の領域に完全に属した存在でないならば。境界にいるのかもしれない。

 

 五月一日、恐山開山。ここから、十月いっぱいまで、この場はひらかれている。

 

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