前田 康子『ねむそうな木』(ながらみ書房 1996年)
夜寝る前に、一日を振り返る。だが、眠いのもあって細部は思い出せない。記憶はおぼろ。確かにその時々でいろんなことを感じ、考え、いろんなことをしたはずなのに。
新仮名の「きょう」に比べ、旧仮名で「けふ」と書いたとき、印象のこの大きな隔たりは何だろう。すっきりとクリアな「きょう」に比べ「けふ」はふわっと曖昧だ。そう、「けふ」の「ふ」は、ふわっとふわふわの「ふ」、ふとんの「ふ」、ふしぎの「ふ」、ふあんていの「ふ」でもある。字の形も、曲線が多く、捉えどころがない。また、音感の上でも、唇の隙間から息を摩擦させて通す無声音では、かちっとした着地にはなりえない。「ふ」はため息なのだから。いくら「kyo」と発音するのだよと言っても、どこかに「ふ」の余韻は残る。「頼りな」いという感覚、よくわかる。
だからこそ、主体にとって、今日は「きょう」ではなく、「けふ」なのだろう。
そんな「頼りなさ」は「生き延びて」というびりびりするような言葉とどう関わるのか。
「生き延びて」 これを、詩的な強調表現ととることもできる。そもそも、わたしたちの生が不確かなことは、絶対的な大前提としてあるのだし。
また、生の切実な実感ゆえの表現ととることもできる。たとえば、病を抱えた人、大きな心配事がある人は、生き延びたという思いに至るだろう。何とか一日をしのげたのだと。
そうでなくとも、会社や家でいくらかのつらさ、ほろ苦さが生じることは当たり前にある。それを躱したことを「生き延びて」と言ってもいい。
「生き延びて」の受け止めの軽重は、各人でも異なるし、一人のなかにおいても、人生の状況によって変わる。
そういう歌である。
つまり、人生に伴走しながら、その時々で趣を変える柔軟性、可変性を持っている。
そして、「生き延びて」の軽重により、「頼りなさ」の深刻さの度合が変わる。
上下が連動しながら、読まれるたびに、その色合いを変容させてゆく。
これは個人的な感覚の歌であった。だが、主体を、人間全体としても、国家などの大きなものとしても読める。大昔から危うい「けふ」を重ねてきたその先に、今が、そして未来があるような。