声がして木陰に並ぶ人たちの空中を突く拳は揃う

嶋稟太郎『羽と風鈴』書肆侃侃房,2022年

声が聞こえたのでその方角をみる。その先には、なんらかの武術の練習をする人たちがいたのだろうか。木陰に並ぶのは太極拳っぽいし、「声」や「空中を突く拳」は空手っぽい。連作のタイトルが「林試の森」となっていて、連作には「赤い花かたちのままに水に浮く林試の森の公園をゆく」とあるので、主体は林試の森公園にいるのだろう。

初句からのつながり方が印象的だ。「声がして」とあるので、主体の意識は聞こえてきた声の方に向かっているのだろう。ただ、「声がして」は主体の動作や抱いた印象には回収されない。〈声がして木陰をみると数人の空中を突く拳は揃う〉とでもすれば違和感はないのだけれど、「声がして」という主体の認識が提示され、そのまま結句の「拳は揃う」まで眼前の光景の描写に終始し、主観を排したままストンと落ちていく。
「声がして」と「拳が揃う」が直接つながって、そこに因果関係がある気がして(おそらくあると言えばあるのだろうけど)、少しだけ不思議な印象を生む。初句と結句の間は時間にしては一瞬な気がするのだけれど、そこに丁寧な描写が入ることで、主体の認識がゆっくりとトレースされてゆく。滞空時間が妙に長く感じられるので、(太極拳かな?)と直感的に思ったりもする。
もちろん一首は、「声がして(その方を見ると)木陰に並ぶ人たちの空中を突く拳は揃う(のが見えた)」という風に省略部分を補って読むのだけれど、その省略によって、主体の把握したものが、より直接的に、かつ時間をかけて迫ってくる。

シンクへと注ぐ流れのみなもとの傾きながら重なるうつわ
具は別の皿に盛られる日高屋の冷やし中華の麺のつやめき
長編の週刊漫画すこしずつ眼の描き方に光がふえる

〈みなもとに〉ではなく「みなもとの」、〈盛られて〉や〈盛られた〉ではなく「盛られる」。〈みなもとに〉だとすっうっと皿に焦点が移るが、「みなもとの」だとそこにほんの少しだけたゆたいが生まれ、洗い桶のようなものに広角に焦点が当たる感じがする。〈盛られて〉や〈盛られた〉だと、眼前には冷やし中華と具がすでに到着している気がするが、「盛られる」だといくばくか(ほんの一瞬であったとしても)タイムラグがある気がして、眼前には麺だけの瞬間があって、「麺のつやめき」によりはっきりと焦点が当たる気がする。
三首目は、週刊漫画の人物造形の変化を描写する際に、「描き方に」と漫画家の描写が挟まれる。「すこしずつ」の措辞と相まって、主体がその漫画を読んだ時間がにじむ。〈だんだんと主人公の目に光がふえる〉のような表現とはずいぶんと違う。
小さな違いな気もするのだけれど、こまやかな修辞によってほんの少しだけ、一首の中で時間が膨らんでいる気がする。その膨らみがかすかなフックになって、一首一首を立ち止まりながら読む。主体の認識をゆっくり追体験しながら、うなずいたり、首をかしげたりしながら読むのは、妙に楽しい。

止めていた音楽をまた初めから長い時間が経ってから聴く
地上までまだ少しある踊り場に桜の花が散らばっていた

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