本多 稜『こどもたんか』(角川書店 2013年)
〈こどもの日〉ということで、観光地に遊びに行ったり、遠くに住む家族に顔を見せに行ったりする方々もいるだろう。
こちらの歌では、実家の父と、その孫が今一緒にいる。
と、孫はわが父を、ゾウやキリンに変身させた。
どんな魔法だ、と思う。
もちろん、場面としては、おじいちゃんが可愛い孫をあやすために、ゾウさんやキリンさんの物真似をしているところであるが、それが「わたし」には非常に衝撃的だった。
その衝撃は、初句の「おそろしき」という感情の率直な表出や、結句の「させて」の言いさしによる余情にもよく表れている。
また、「真似」や「ごっこ遊び」などという言葉を使わずに、「ゾウやキリンに変身させ」とすぱんと言い切ったところからも見て取れ、そこが、そのまま一首の見所となっている。
「わが父」という言い方を考える。そこにいるのは、わが父 わたしの知っている、あの父であるはずなのだ。ゾウやキリンになってくれるような父ではなかった。厳めしい、あるいは、生真面目な、あるいは、物静かな父。その質に反発した時もあったのかもしれない。
それが、まさに今、文字通り、別の生き物へと変貌している。させられている。
やすやすと軽々と、わが父を変えた「孫」。あるいは、父の奥にあった何かを引き出した「孫」。
いやはや、この神通力は。
「奴」というぞんさいな言い方からは、得体の知れない、自分では扱いかねるような空おそろしさを持った存在という把握が窺える。
「わが父」と、「孫」である子の再発見の瞬間。
それを目の当たりにして、わたしは立ち尽くす。