連休の終はる夕べを無精髭のびし顎まで湯につかりゐる

𠮷岡生夫『勇怯篇 草食獣・そのⅢ』短歌新聞社,1988年

連休が終わるのはさみしい。連休が長ければ長いほどさみしい。連休の間は、お休み明けが嫌だなとどこかでずっと思っていて、その思いは休みの終わりが近づけば近づくほど増大する。
連休はうれしいと同時にかなしいものだ。

一首の舞台は連休の最終日。二日間の週休日なのかも知れないが、「連休」というあらたまった呼称や、「無精髭のびし顎」という描写から、もう少しだけ長いお休みが想起される。

夕方、主体は湯船に浸かっている。顎までつかっていると描写がなされていて、どこかゆったりとした入浴に思われる。〈連休の終はる夕べに〉ではなく、「夕べを」となっていて、一首からは連休が終わる夕方という時間、その経過がいくばくか強く感じられて、主体が連休をいつくしんでいるような印象がある。かけがえがないというほどでは全くないが、それでもいつもとは違う時間。それはやはり、〈休日の終はる夕べ〉ではなく、「連休の終はる夕べ」だからだろう。風呂からはいずれ出なければならないし、明日の朝になれば連休は終わっている。

主体の顎には無精髭が生えている。マスクが常態化して多少の変化はあっただろうが、それでもやはり無精髭を生やすことができるのはお休みならではという気がする。あえて無精髭の描写が挿し込まれているので、それが休日をいくらか象徴している印象だ。
休日が終わり、労働がはじまるとともに無精髭は剃り落とされてしまうだろう。連休に直接触れることはできないが、顎の無精髭には触れることはできる。顎の無精髭に触れることは連休に触れることであり、無精髭が剃り落とされることは連休の終焉を意味する。

やはり、連休の終わりはさみしい。

今年の暦通りであれば、あと二日もお休みがある。二日といえば悪く無い気もするし、休めるだけでありがたいようにも思う。それでも、半分以上消化されて、摩耗して小さくなった連休を思うと、ちいさくかなしいのだ。

やれやれと村上春樹風に言ふゴールデンウィークの滅金めつきが剝げて  田村元『北二十二条西七丁目』

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