連休もひっそり暮れし夕厨ピーマンふたつ水桶に浮く

古林 保子『ローカル線辺り』(青磁社 2006年)

 

 門脇さんご掲出の5/6土の歌、「連休」の終わり際を詠んだものでしたが、みなさま連休明けいかがお過ごしでしょうか。

 この大型連休、新型コロナの感染症法上の位置づけが引き下げられるということで、思い切って遠出した人も多かったようだ。が、一方には、何となく家にいて、ちょっとしたことをしているうちに終わってしまったなあという人もいるだろう。
 「連休も」の「も」には、割合いつも、そんな感じで「ひっそり」と一日が過ぎていっていることが表れている。だから、実質、連休だろうがそうでなかろうが、あまり関係はない。
 とは言え、やはり、通常の平日とは違う何かが心のどこかで揺らめくだろうか。
 あえて言葉にするなら、いくらかのむなしさのようなものが。

 時間は夕方、場所は厨  台所。「暮れし夕厨」の「し」は「夕厨」にがっちりと係っており、舞台となるこの今の時と場所に焦点が合う造りだ。
 そこで夕飯の準備に取りかかる。だが、気合いを入れてという感じにはならない。ピーマンが水桶に浮いているだけだ。

 そう、ピーマン。この歌では、なんと言っても「ピーマン」の選びがいい。「ピーマン」が空洞を抱えることが、このむなしさ(ともいえないほどのむなしさ)とかそけくリンクする。

 それでも、「ふたつ」というところには少し遊びへの予感があって、水桶のなかで「ふたつ」はかすかに揺れてくっついたり離れたりするかもしれない。「遊び」は「物語」と言い換えてもいい。

 ピーマンは、いずれ断たれる。水から拾い上げられ、空洞を、むなしさを断たれる。すっぱりと。
 それでも、今はまだ、浮いている。
 この何となくの、むなしいようなさみしいような、あわいの時間。

 連休明け、平常の感じに戻るにはもう少しかかるだろうか。たくさん遊んだ人も、そうでない人も。

 

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