夏きざすやうに勇気はきざすのか飲酒ののちの蕎麦のつめたさ

大口玲子『東北』雁書館,2002年

「夏きざす」という季節を提示する初句が明るい。句跨りによってそれは比喩として再度提示されるのだけど、その明るいイメージは「勇気」という名詞に引き継がれる。ただ、「勇気はきざすのか」という疑問形(あるいは反語)によって初夏のイメージは陰りを帯びる。
必ず夏はきざすだろう。桜は葉桜となり、やわらかかった日差しは徐々に鋭くなり、雑草の背丈は高くなる。おだやかな春の暖かさは、夏の暑さに切り替わる。経験的に、これは100%発生する出来事だ。
一方、勇気は100%きざすわけではない。春が夏になるように、勇気が湧いてきてなんらかの行為が成し遂げられるかと言えば、必ずしもそんなことはない。ただ、夏の兆しに満ちた世界を前にするとそうなって欲しいとは強く思う。夏は熱量が高く、おそらく勇気(とそれに付随するであろう行為)の熱量も高い。

下句、酒を飲み、そののちに蕎麦を啜る。一首で読むと、外で飲んでいて〆に蕎麦を食べた、あるいは蕎麦屋で飲んで盛りで〆た、という可能性も感じるが、歌集中ではこの歌の前後に「昨夜ゆふべからやぶれてばかり酒飲んで夫のかたはらに座礁せり」、「山芋をきざみゐるわれの大雑把 夫は醤油を買ひにゆきたり」という歌が配されていて、家で食べる蕎麦をイメージする。蕎麦を茹でながら飲んでいた、あるいは、すでに飲んでいる状態で蕎麦を茹でたのかも知れない。「勇気」からのは少し距離があるように思う。

前述のとおり、上句の温度は高い。ただ、その温度は、「やうに」、「きざすのか」と下がってゆく。それでも、「飲酒」にはいくばくかの温度の高さが含まれるが、一首は「蕎麦のつめたさ」で終わる。夏になってゆく世界の中で主体だけが取り残されているようだ。

「きざすのか」の答えは、〈きざさない〉なのかも知れない。それは、下句の温度の低さが示唆している。
「きざすのか」にはほんの少しの希望が含まれているのか。あるいは、きざさないだろうという諦念が強いのか。きざさないという諦念が強いような気がするが、その先の暖かさがほんの少しだけ示唆されているような気もする。
飲酒ののちの蕎麦は美味い。主体の精神はまだ季節から取り残されているかもしれない。それでも、冬が春を経て夏になるように、一首の結句ののちに、また温度が高まる瞬間は必ずやってくる、ような気がするのだ。

人生に付箋をはさむやうに逢ひまた次に逢ふまでの草の葉  大口玲子『東北』

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