駒田 晶子 『銀河の水』(ながらみ書房 2008年)
昼寝をしている母を眺める眼差し。
それは、無邪気な娘としてのものではなく、母を一個の生物として見ているそれである。初句の「この人」という言い方からすでに、本歌における態度が表明されている。
「縞馬のしま溶けるように」は歌の肝である魅力的な表現。慣用的に言い直すなら、泥のように昏々と眠るイメージだろうか。あるいは、暑さの疲れの中に深々と。
そして、あくまでも眠る様子の比喩なのに、母=「縞馬」に思えてくる、そういう不思議な仕掛けを歌に与えている。
動物が人間に変化して人間と共に暮らす変身伝承は、「鶴の恩返し」や「葛の葉」等々、たくさん存在する。
その多くは、動物報恩譚である。けなげに世話を焼く、愛を尽くす、そのためにやってきた。
いつもは保たれている「しま」が、今は溶けかかっている。しまをくっきりと見せるためには意志の力が必要であり、当然、無理がかかっている。
これまでこのように母を見たことがなかったということは、裏を返せば、母も隙を見せなかったということだ。それが今。無防備でいることが痛ましい。
さて、しまが溶けるとどうなるか。「縞馬」は別のものへ形を変える。つまり、この歌は、二重のメタモルフォーゼの可能性を内蔵しているのだ。
あえてシンボリックに読むなら、母は、母という本性そのものに回帰しようとしているとも言える。
そんな中に、わたしが居た。小さきいのちとして。
目覚めればいつもの「母」であろう。そしてわたしも、いつものように接する。
「この人の中に居た」という感慨を胸にしまって。
好きな人が出来ました家を出ていきますもう戻らない家族の時間
一連にはこちらの歌もあり、そんな別離へのいよいよの予覚が、生物としての、母と自分との根源的な関わりを思わせたのかもしれない。
昔話の型としても、正体を知られた後は、別れて暮らすこととなる。
縞馬の子は縞馬なのか。縞馬になるのか、そんな入れ子構造の可能性も帯びながら。