押し込まれては物となり吐き出されては人となり改札を出づ

栗原寛『Terrarium』短歌研究社,2019年

満員の通勤電車が想起される。朝、駅員さんが扉の前にいて、乗客をグッと押し込む。かなりの満員電車。慣れた乗客は静かに耐えながら会社や学校を目指す。
就職して東京で働きはじめて、満員電車に乗った時には心底驚いた。車両の中にびっしりと人がいて、自分もその一部分として息を殺す。その時間は極端に自由が制限される。
一首の「物」という把握には納得感がある。

一首は韻律が印象的だ。
「押し込まれ/ては物となり/吐き出され/ては人となり/改札を出づ」と定型での句跨りとして読むと、二度の「ては」にアクセントが付されるような感じがして、主体の意思に反した動きであるような印象が強まる。「押し込まれ」、「吐き出され」という語の斡旋からは、電車に乗る・降りるという能動的な印象は無い。乗らざるを得ないから乗るという主体の意識を感じる。
また、「押し込まれては/物となり/吐き出されては/人となり/改札を出づ」と七五七五五と読めば、講談の語り口のようでどこか滑稽な感じがしてくる。結句はぷつりと五音が切り離されて、放り出される感じがある。結句までは通勤電車一般の描写のように感じられるが、結句で主体の動作に帰ってくる。
いずれにせよ、そこには主体の不如意が強くにじむ。

一首を頭から読んでいくと、結句で電車であることが確定するように思われる。結句まで読んでもう一度読むときにも、満員電車のことだろうなと思いながらも、四句目までのフレーズが箴言のように響いてくる。物として扱われる(と感じられる)場面はいたるところにあって、それは満員電車に限らない。「押し込まれ」、「吐き出され」という主体の意思を無視した言葉が冷たく響く。

主体は物から人へ戻り、改札を出る。ただ、その先に待っているものが安寧だとは限らないだろう。「押し込まれ」、「吐き出され」という言葉からは人間よりも大きな存在が感じられる。それは人間を常に優しく扱うわけではない。「物」として扱われる場面がまた発生することがあるような気がして、どこか不穏だ。

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