ふるさとに母を叱りてゐたりけり極彩あはれ故郷の庭

小池 光 『廃駅』(沖積舎 1982年)

 

 母を叱っている。母に叱られていたはずなのに。いつの間にか時が経ち、自分は成長し、母はそれだけ老いた。

 

 叱るには理由がある。あるけれど、庭先で叱るならばそこまで重々しいことではないだろう。母のおせっかいや、気弱さや、世の中を知らないゆえに損をしていることなど。他の人になら落ち着いて穏やかに言えるところを、相手が母となると、つい、我慢がならなくなってしまう。

 

 屋内で叱っているとも取れなくはない。ガラス窓越しに庭を背景にして。しかし、ここは、庭で、あるいは縁先で、鮮やかな花々に取り囲まれながらと読みたい。

 

 作者の故郷は東北、宮城県南部の船岡というところである。今もそうだが、この歌が作られた頃、庭にはたいがい花が植えてあって、少しの畑などもあっただろう。

 夏の庭である。ほうせんか、グラジオラス。ダリア、向日葵、百合、ムクゲ、立葵、鶏頭、桔梗。のうぜんかずら、紫陽花、ナツツバキ、百日紅。色の洪水である。そして、濃い色の葉っぱ。はびこってくる雑草。草いきれ、土いきれ。

 その繚乱の中で母を叱っている。

 

 さて、「極彩」色と言えば、すぐに結び付くのは、地獄絵図や涅槃図である。この、母を叱るということも、ある意味で極みにあることだ。大切で、好きで、だが、我慢がならず、叱ってしまう。そうして悲しくさせる。母を、育ててくれた母を。そういう、究極のあわれな場面が、人にはある。

 

  学歴をなほ信じゐる母連れて春のハトヤに来たりけるかも 『日々の思い出』

 

 この母は、息子の優秀な学歴を信じて頼りにする、昔ながらの母である。母のその当然の価値観は、伊東の、有名で大衆的な旅館「ハトヤ」によく合う。母には、それだって贅沢な旅なのだ。そして息子も、そういう母の価値観に合わせたいと思っている。いるけれど。時に、叱ってしまうのだ。

 

 「極彩」は一色ではない複雑な心象の象徴として機能している。また、割り切れない、濃密な「生」というものの。母から生まれ、母を叱ることも、すべてきらめきである。今生のきらめきである。

 

 そして巧みだと思うのは、こういう何とも言えない感情が「ゐたりけり」というあっさりとした型に入れ込まれていること。加えて、「あはれ」。四句目にぱっと入れ込まれた「あはれ」の息遣いが耳を掠める。

 型のなかに抒情が極まる。

 

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