死者のもつ愉しみは知るよしもなし野川の底のさかしまの天

杜沢光一郎『黙唱』(角川書店 1976年)

 人を亡くす。つらいことだ。

 亡くなるとき苦しかったか、痛かったか、もっとしたいことがあったのではないか、言いたいことがあったのではないか。いろいろな思いが駆け巡る。

 そして、あの世というものがあるとして、どんなふうに過ごしているのか、安らかでいるだろうか、悔いてはいないだろうか、この世の者たちを心配して泣いてはいないだろうか、そういう思いも駆け巡る。

 

 だが、その実は……わからないのである。わからないということは、あの世が「愉し」いのかもしれないということだ。もしかして、いちいち全部がとても愉しいのかもしれないということだ。自在に動き回れたり、なりたかったものになってみたり、食べたかったものを食べたり、南極にも宇宙空間にもひとっ飛び。そして、時々この世を覗き、微笑んだりうなずいたり、ちょっとしたいたずらを仕掛けたり。

 「たのしみ」という字に、愉快・愉悦の「愉」を充てながら、死者がわだかまりなく、軽やかに、心から喜びたのしんでいる可能性があることをこの歌は示顕する。

 

 とすると、「知るよしもなし」という言い方は、バシッと簡明に断じていて、突き放したような感じがするけれども、要はこちらが心配しても始まらないということだ。心配しなくても大丈夫だということだ。野の川には空が映っている。野川の底には逆さまになった天がある。ならば、そこはそんなに悪いところではない。

 もちろん、野川の「底」=死者の行った「天」ではないけれど、そのイメージはやはり重なってくる。

 覗けば、水はきらきらと、光もきらきらと。素朴で温かな懐かしいところ。自然ならではの野趣に富んでいるところ。小さい生き物たちもついついと游ぶところ、漂うところ。

 「天」は、我々には見つめても見えないところだけれど。見上げても、逆立ちしても見えないところだけれど。

 

 作者は僧侶。死者との深い関わりが詠ませたか。

 

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