中津昌子『記憶の椅子』角川文化振興財団,2021年
雨が降る少し前、雲が重たくなり、世界が薄暗く感じられる。〈曇っている〉、〈雨が降りそう〉というような日常の言葉ではなく、「湿り気を空が含んでくる時」という表現が選ばれている。「湿り気」からはじまる初句によって、一首は湿度をまとう。そして、「含んでくる」という進行形によって、一首の湿度はじわじわ高くなってゆく。
下句への展開に少し驚くのだけど、感覚的にはよくわかる。
快晴よりも、雨天や曇天の方が歌になりやすいような気がする。雨はかなしさやさみしさと親和性が高く、ネガティブな感情を仮託しやすい。古典和歌の時代から雨をモチーフにした秀歌・名歌はいくらでもある。
そんなことを考えながら読むと一首はとても腑に落ちる。日常使っている言葉が曲げやすくなることで、詩が生まれやすくなる。「言葉は少し曲げやすくなる」という下句の把握には、納得感と意外性が同居している。
また、紙のようなものであれば、水分を含むといくらか柔らかくなり、曲げやすくなるだろう。曲げやすくなると言われたときに、物理的に言葉が曲げられた光景も想起する。湿度によって少し歪んだ世界が眼前に展開して、曲げやすくなって曲がるのは、自分の認識なのか、それとも具象なのか判然としなくなり、不思議な心持ちがする。
一首においては、まだ雨は降り出していないように思う。雨の気配がして、世界のスイッチが切り替わってゆくときに、言葉が曲がりやすくなる。雨の気配と言葉がたわむ気配を結びつける感覚は鋭敏だ。
〈曲がりやすくなる〉のではなく、「曲げやすくなる」。そこには、人間の意思が介在する。雨の気配とそれによる言葉のかすかな変化を感じ取れる者が、言葉をわずかに曲げることができるのだろう。
関西では昨日から梅雨入りしたようだ。じっとりとしている世界の中で歌を作るのは、それはそれで難儀なのだけど、窓から雨を眺めていると、歌ができそうな心持ちになるから、不思議だ。
ガラス越しに雨の見えれば雨はいいしずかに落ちてゆくだけだから/中津昌子『記憶の椅子』