夕ぐれは肉のもなかに盛んなる肉屋の指をかいまみるかな

河野 愛子『魚文光』(思潮社 1972年)

 夕ぐれ。肉屋にいる。あるいは、肉屋の前にいる。商店街のおたなだろうか。

 夕飯の準備をする人達が買いに来るので、肉屋は忙しそうだ。せわしく手を動かしている。その様子を主体は見ているのだが、視線はより狭い部分に向けられている。

 指、である。

 肉屋の指を見ているのである。

 

 「肉」は他の動物の肉である。それをひっくり返しながら、整形し、骨の有無を確かめたり、筋を切ったり、脂を削いだりするのだろう。ふさわしい大きさにカットし、ふさわしい薄さにスライスするのだろう。

 その時、肉のもなか  真ん中に、幾度も指が入り込む。肉のうちを、指が何度も「盛ん」に行き来する。

 

 その指を見る。いや、「かいまみる」。なぜだろう。堂々と眺めれば良いものを、なぜこのようにのぞき見るのか。さすれば、正視できない何かがあるのだろう。見たいのに、差し控えさせる何かが。

 それは何か。

 他の生き物のいのちをもらっていることへの罪過の気持ちだろうか。

 それとも、官能的な何かだろうか。指も、肉、であるから。肉と肉が絡むとき、かすかにねっとりとしたエロスが兆す。

 そう、指も肉なのである。だから、肉は肉、指は指で、当然混じり合うことはないけれど、誰の指で誰の肉なのか、その辺が一瞬混沌とする、そういう歌でもある。

 

 一方、視界をより大きく捉え、肉屋に陳列されるたくさんの肉の中で、巧みな技術を持った指が、ひたむきな労働をおこなっている一首と取ることもできる。「かいまみる」を、時折指がちらちらと見える状態として。

 

 

 私の小さいときにも、近所に肉屋があった。特別な日にはそこにとんかつ用の肉を買いに行かされた。美しい奥さんがよく研がれた美しく長いナイフで、肉をざっくりざっくり切るのを眺めていた私の目は、恍惚の目だったと思う。

 

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