石は無欲、だらうかしかし墓石はやけに光つてゐるではないか

藪内眞由美『首長竜のゆふやけ』北羊館,2018年

初句が妙に孤立している。
「石は無欲」は納得感のある表現だ。受動的に削られていく石そのものには欲がありそうにはない。
初句六音の字余りに読点が付されて、丁寧に切れ目が付されている。読み下すとき、この読点部分でひと呼吸置かれて、初句の速度はゆったりと感じられる。どことなく重々しく声が響く気がして、箴言のようだ。石の冷たさや孤独さもほのかに感じる。

二句目からの展開は一転して速い。自問の直後に逆説の接続詞が配される。初句がゆったりとしていることもあり、「だろうか/しかし」という句割はスピード感がある。とくに「しかし」はアウフタクトのように三句目に接続されて、滑らかだ。
ゆったりとして箴言めいた初句から、自問・逆説を経て三句目以降に自問に対する回答がなされる。下句はゆったりとした定型に回帰する。展開が目まぐるしいような気もするが、一首の緩急が主体の思考とリンクしている感じがあって、違和感はあまり感じない。

「石は無欲」の裏側にあるのは、欲深い人間の存在だろう。欲深い人間は、石という本来無欲な存在を欲望の対象とする。宝石や大理石というような価値付けを行い、その価値を序列化する。無価値な河原の小石から何百万円のダイヤモンドまで、石はある意味で人間の欲を具現化した存在だ。この時、欲深いのは人間であり、石ではない。

しかし、主体は本当にそうかと自問する。一首は墓参の際の歌だろうか。掲出歌が配された連作の一首目は「墓石に墓石重ねられてゐる墓の墓場を見てしまひたり」となっていて、「やけに光つてゐる」墓石とは異なる墓石の存在を主体は認識している。

石には違いがある。そこに存在するのは、人間の付した空虚な序列のみなのだろうか、石にも欲が存在してもおかしくはないのではないか、主体にはそんな風に思われたのかも知れない。
もちろん、「やけに光つてゐる」のは人間が〈高価な〉御影石で墓石を作ったからだし、「墓の墓場」にある輝きを失ったのは人間が手入れをやめたからに過ぎない。そんなことは主体は承知していて、一首には強い断定は無く、「ではないか」という結語にはいくらかの留保が付されている。

それでも、主体は美しい石とそうでない石の落差には石の欲のようなものを感じずにはいられない。それ自体も人間が付与した価値であると言う事実に気がつきながら、石のことを思う。
「欲」に収斂する把握は面白く、納得感がある。

だんまりを決め込んでゐる石たちにぽつりぽつりと雨滴の沁みて/藪内眞由美『首長竜のゆふやけ』

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