小林久美子『小さな径の画』(北冬舎 2022年)
元々食器棚として使用されていたものが、今は本棚として使われている。
食器棚の時には、皿やカップ、スプーンやフォークなどが収められ、出すたび、仕舞うたび、触れ合ったそれらが、かちゃかちゃと音を立てていたことだろう。扉も、ひんぱんに開け閉めされていたかもしれない。そして、水音、スリッパの音、食卓の会話などもそこに届いていた。たくさんの音や振動に取り巻かれていたのだ。
それが、今は異なる。「しずか」になった。
置かれる場所自体も変わったのかもしれない。キッチンから、本を仕舞うようなところに。いや、そのままの場所にあってもかまわない。その棚に、古い書籍が並べられた。否、書籍が「住」んでいる。
「住む」と言われると、途端に、その佇まいが色を持って浮かび上がってくるから不思議だ。書籍を人に喩えるなら、上品な居ずまいの老いびと達のよう。落ち着いた調度の、快適な家で穏やかに暮らす。食器棚はそのような場となったことを喜ばしく思っているのではないか。
「本来の用途を外されてしずか」の「しずか」には、もう役割を負わなくてもいいという要素も含まれる。食器棚であれば、食器を守らなくてはならない。磁器・陶器……壊れ物もたくさんあった。責任があった。「本来の用途」という硬い言葉が呈する責任が。
が、そもそも、食器棚は食器を入れるものと決める必要はなかったのだ。いつからか、そういう分業が強固になされるようになったけれども、本質的には、自由でよかった。何を入れてもよかったのだ。
今は、古い書籍たちと上手くやれていそうな棚。穏やかに落ち着いて。それでいい。
「外されて」には、リタイアという意味合いもある。年を経れば、人の暮らしも、棚の暮らしも移り変わる。その時々に、今の自らに合うように、有り様を改めていけばいい。時には、食器棚には食器を、という思い込みを解き放ちつつ。
これからまた、棚には、しっとりとした新しい時間が刻まれていくのだろう。
(原本は三行分かち書きである。)