岡部 史『海の琥珀』(短歌研究社 2022年)
文末に「き」という過去の助動詞があるからには、思い出のなかの一場面か。
夕方、「妹」をさがしに行った。たとえば、ご飯の時間になるのに、遊びに出たっきり戻ってこない。それを、呼んで来いと家の人に言われた。
さがしに行く。
すると、妹はいなくて、代わりのように「あぢさゐ」が並んでいた。
妹に似ている「あぢさゐ」が。
これは 怖い。
そもそも、花が「貌」に見えるというのが怖い。たしかに、あじさいは大振りで、そのころんとした球体の量感は、人間の頭のようだ。そして、小花の連なりが、光の加減により、凹凸のある顔面のようにも見える。物の形や模様が人の顔に思えてくることを顔パレイドリア現象と言うのだそうだ。天井の模様や、壁のしみ。一度顔だと知覚してしまったら、なかなか払拭できない。
いや、「顔」ではない。「貌」であった。むじなへんの、より獣めいた貌、貌、貌。
「人面樹」という妖怪の伝説も思われる。
それが妹に似ている。なぜ? 妹は……あじさいに取り込まれてしまったのか。
ところで、「妹に似てあぢさゐなりき」という文体、奇妙である。もっと言えば、助詞の「て」が奇妙である。
「妹に似たあぢさゐ」ならよくわかる。だが。そうではない。
妹に似ている「から」あじさいのような、似ている「のに」あじさいのような、原因・理由、順接、逆接、がないまぜになったような、淡い、不思議な即き方なのだ。
そうは言っても、結句には「あぢさゐなりき」という、きっぱりとした認識がある。あくまでも、あじさいだということはわかっている。ならば、この「て」は、正気に戻った瞬間を捉えた「て」かもしれない。「て」を発音するほどのほんのわずかな時間で、主体は、飲み込まれそうになっていた幻像の世界からぱっと逃れた。「貌だ。妹に似ている。(が、やっぱり)あぢさゐだ」と、結果的に心を立て直した。
相変わらず、妹は見つかってはいないけれど。
あじさいは変化の花である。逢魔が時という時間帯とも相まって、夢幻の場面を作り出した。
脳裏に焼き付けられた強烈なノスタルジー。妹は今も、「あぢさゐ」の中にいるようで。