ちからある雨となりたり傘の上の響きを手首でうけとめながら

河野美砂子『無言歌』砂子屋書房,2004年

雨足が強くなってきたのだろう。傘を打つ雨の勢いが増してきて、雨がありとあらゆる物に触れる音が聞こえる。主体はそんな状況で野外に傘をさして立っている。

「ちからある雨となりたり」という初句二句の言い回しが、まず印象に残る。
〈雨が強くなる〉、〈雨がきつくなる〉というようなものが日常的な言い回しだと思うが、「ちからある雨となりたり」の方がそれらの表現よりも状況をイメージしやすいような気がする。
「ちからある雨」という表現からは、雨粒の大きい夕立のような雨が想起され、「なりたり」という表現からは軽く降り出してからの変化が(たとえ数秒間の急激な変化であっても)感じられる。ここまで強くなるとは…というような、小さく意表を突かれた感じも受ける。
それと同時に、どこか主体は雨と対峙しているような印象が生まれる。「ちからある」という表現にはいくらか擬人のにおいがするからだろうか。雨を厭う感じはあまりしない。

「手首でうけとめながら」は納得感のある表現だ。雨を受け止めるのは傘の表面だが、雨を感じるのは手だろう。弱い雨なら手のひらで受け止めるが、傘を強く打つ雨の力を受け止めるのは手首だ。ただ、「うけとめながら」と平仮名表記が選択されていて、力強く受け止めるというよりは、だんだんと雨と一体になって溶け出していくような印象を受ける。

「響き」を手首で受け止めている。それは雨音であり、雨の伝える振動であり、雨のちからであろう。「響き」という語からは、音と振動のニュアンスが立ち上がり、手首に伝わったであろう雨のちからがより直接的に感じられる。「傘の上の」という三句目が字余りであるなら、三句目に対空時間が感じられ、「傘の上」という空間的な描写もあり、「響き」は雷鳴でもあるのかと思ったりもする。

一首は、情景がクリアに浮かぶ歌なのだけど、その情景のクリアさに主体が介在していない感じがして不思議な印象をおぼえる。もちろん、「ちからある」という把握は主体のものだろうし、手首に伝わる響きには実感がこもっていて、それらの表現によって立体的に景が立ち上がる。
ただ、雨の中に傘をさして立っている状況に対する感慨は滲んでいないような気がする。雨を厭うている感じも、雨を楽しんでいる感じもしない。主体がそこに存在した上で、主体の把握を含めて客観的に状況がかき取られているように思う。

雨を表現する日常の言葉から、一首は少しずつずれているような気がする。そのずれによって運ばれた場所でもちゃんと雨は降っている。
そこに降る雨が妙に美しく感じるのは気のせいだろうか。

ふる雨の音に生まるる奥行きが裏庭の夜の入口となる/河野美砂子『無言歌』

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