神の掟不意におそれつ唐黍の粒のひしめき列なしてゐる

村山美恵子『溯洄』(短歌研究社 1981年)

 

 「唐黍」の美味しい季節である。唐黍はすなわち、とうもろこしのことだが、南蛮黍とも呼ばれるそうで、舶来の、黍の類いという把握だったのだろう。日本に渡ってきたのは、16世紀だそうだ。

 唐黍は地域ごとに様々に呼び慣わされているのが特徴の野菜で、二百以上の方言がある。「とっきび」や「なんば」などは出所がわかるけれど、「となわ」や「まんまんきび」にはどんな謂れがあるのだろう。

 東北は宮城の私は、「とみぎ」と呼ぶ。「とうきび」→「とうきみ」、そして、音位転換で「とうみき」→「とみぎ」となったのだろう。「きみ」とも呼んでいる。

 

 唐黍は、とても甘くて美味しいのだが、よく考えれば凄みのある形をしている。歌の主体もこの形に「おそれ」を感じた。ひしめく粒、それが列をなしていること。綺麗すぎるし、整っていすぎる。自然の物なのに不自然なのだ。

 そう言われれば、ひげや、皮を何枚も剥いた先にある鮮やかな黄金色も、どこかナチュラルではない。意匠を施した誰か  「神」の思惑を不意に感じ、怖くなったのである。

 

 「掟」という言葉の選びが興味深い。この唐黍のデザインは、瞬間的な気まぐれによるのではなく、そこに何らかの取り決め、ルールのようなものがあるというのである。確かに、連なる粒には、規則性が感じられる。その、遊びではない、深慮に基づいた創造の一端、細部にまで行き届いた明晰な意図を空恐ろしく感じ、ぞっとしたのだ。なぜぞっとするか。その目は、私たち人間をも見ているからに違いない。私たちも、ひしめき列なしている粒のような存在にすぎない。そう思う時、「掟」という言葉が厳しく光ってくる。ひしめく唐黍の粒を見つめる私たちを見つめる目。入れ子構造の中で粒の一つが感じた畏怖なのである。人間にも「掟」のしばりが施されているだろうから。

 

 ちなみに、原産地であるメキシコでは、唐黍は特別な存在で、マヤの創世神話には、創造主が唐黍をこねて人間をつくったとある。「唐黍」と「神」と人間には、割合に直接的な関わりもあったようだ。

 

 大いなる存在をふと感じる。それは、何気なく、ごく身近な美味しいものにかぶりつこうとするような時にもある。

 「神は細部に宿る」という表現は、アーチストが細部まで丁寧な仕事をしたときの褒め言葉、もしくはそれを目指さんとする戒めの言葉だけれど、異なる意味で、神は細部に宿っている。

 

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