沢蟹がこんなにいるよ少年のいろんな形の臍がゆきかう

江戸 雪『百合オイル』(砂子屋書房  1997年)

 水辺にはいろいろな生き物がいる。フナやハヤやドジョウ、小エビやヤゴにカエル。水に棲むもの、陸に棲むもの、両棲のもの……。石の下や岩の隙間、泥や砂の奥に潜んでいるものも多い。二つの界にまたがりつつ、隠れ場もある空間……これは心躍る。

 そういう中で「沢蟹」は、見つけたらとてもうれしいものの一つだ。沢蟹は3センチほどで甲羅に丸みがあって、わらわらとした動きにも愛嬌がある。また、水のきれいなところにしかいない。ここは、水のきれいなところなのだ。

 

 少年も、思いがけず沢蟹がたくさんいることを知って嬉しくなったのだろう。平仮名の「こんなにいるよ」に、朴直な心の弾みが見える。その声を合図に、他の少年達も寄ってくる。そして、それぞれに蟹を追いかける。タモなどを取りに走る者もいるかもしれない。そんな様子を、「臍」の行き交いとして捉えたところが、この歌のすてきなところだ。頭でもなく、足でもなく、臍。

 

 臍は言うまでもなく、臍の緒がつながっていたところで、命をここから享けていた大切な部位である。身体の中心である。

 なのに、格好良すぎない。鬼に取られそうになったり、ごまが詰まっていたり、茶を沸かしたり、ときどき曲がったり……ほのぼのとユーモラスだ。

 そんな臍。「臍がゆきかう」と言われれば、もう臍しか思い浮かばない。少年の顔は消えて、臍だけ。少年がいて臍があるのではなく、臍があって少年がいる。

 臍は根源で本能で生命力あふれるところだから、見たい、知りたいという興味に率直に動くだろう。しかも、その臍が「いろんな形」をしているという。ここもまた、とても楽しい。

 それはもちろん、一人ずつの個性ということだけれど、さらに言えば、遊びの場で生まれる、普段の価値付けによる関係性とは違うもの  たとえば、釣りが好きな子が魚の名前や生態をよく知っていて、他の子に教えてあげられるというようないつもとは違う面  が、普段は隠されている臍というものと引き合ってくる。お勉強ができるとか家が裕福だとか、そういうものはどこかに消え去り、今日は、顔ではない頭でもない、「臍」として沢蟹に臨むのだ。

 そうして、沢蟹を見よう、掴まえようとしてしゃがんだり、背伸びしたり、身をそらしたりするたんびに、伸びたり縮んだりする臍でもあるのだ。

 

 もう一つ。この臍は沢蟹のもののようにも思えてくる。

 むろん、沢蟹に臍はないが、蟹の、胴体だけで歩いているような形は、おなかを丸出しにして、そのおなかに臍を貼っ付けているようにも思えるのだ。甲羅の起伏が臍に見えたりもするのだ。

 「こんなにいる」が、「ゆきかう」という動詞と遠くつながるのだと思う。複数の、わしゃわしゃしている者たち。沢蟹は少年で、少年は沢蟹のようだ。

 

 水辺での遊びも気持ちのよい時節。いろんな「臍」たちに楽しんでほしい。

 

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