夕立をビニール傘で味はつて誕生日またすぎてゆくのみ

目黒哲朗『VSOP』本阿弥書店,2013年

年に一度に巡ってくる誕生日と夏季に不意におとずれる夕立。両者に類似点はあまりないような気がするが、その取り合わせにあまり違和感は無い。
誕生日はかならずその季節に結びつくため、夕立が夏をあらわし、主体が夏生まれであることが暗示される。また、「味はつて」という傘が雨を受けるにはやや不似合いな動詞の斡旋によって、初句二句と四句目の誕生日がゆるやかに結びつく。誕生日のご馳走やケーキの代替品として、雨があるかのようだ。

夕立が世界を濡らし、主体のことも濡らす。幸せで仕方がない誕生日という感じはしない。ただ、それを悔しがるわけでもなく、粛々と受け入れてゆく。誕生日とはこういうものだと。

「また」の斡旋に寂寥感が滲む。一首のような印象を自己の誕生日に抱くのは今年がはじめてではないのだ。誕生日がやって来るまでの体感速度は年々早くなっていく。誕生日が来ても派手なお祝いをするわけではないのかもしれないし、加齢が嬉しくてたまらないわけでもないだろう。一年に一度やってきて、淡々と過ぎ去ってゆく。本当にハレの日なのかわからない。
一首を含む第一章には、「側溝に雨後の匂ひがたちのぼる季節になつた四十歳しじふがちかい」や「抱き上げてやる息子まだ運命や限界といふ甘美を知らず」といった歌が配されていて、主体の人生の時間が滲む。

自身の誕生日を詠った歌としては、内山晶太の「ショートケーキを箸もて食し生誕というささやかなエラーを祝う」(『窓、その他』)がすぐに思いつくが、掲出歌同様どこか寂寥感が漂い、掲出歌以上にシニカルだ。掲出歌もそうだが、〈幸せ〉、〈祝福〉、〈特別〉、〈楽しい〉といった一般的なイメージを梃にして、そうではない誕生日像を提示することで一首は屹立する。

誕生日の季節感は毎年同じだ。夏生まれなら蟬声の聞こえる暑い日だろうし、冬生まれなら寒い日であろう。四季が毎年人生を通過してゆくように、誕生日もまた人生を何度も通過する。
ただ、通過して行くときの印象が歳を追うごとに変化して、どうしても時間の経過を感じてしまう。小さい頃はあんなに楽しみにしていた誕生日なのに、いつ間にか通過点のひとつになっている。

それでも、誕生日が特別であった頃の記憶がしっかりと根付いているからか、掲出歌のような歌が詠われ、その歌を読んで心が動いたりする。

なんだかんだ言っても、誕生日を無事に迎えられたことはありがたいことだと思うのだ。

決して譲れぬ孤独がわれにあることもしぐるる窓を伝ふひかりは/目黒哲朗『CANNABIS』

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