生徒らと読みすすめゆく『夏の花』題名はさう平凡がいい

本田 一弘『眉月集』(青磁社  2010年)

 

 「夏の花」は原民喜の小説で、いわゆる原爆文学の範疇にある。原は、自身が広島で被爆した。広島市出身で進学のために上京し、そのまま関東で暮らしていたが、戦況が厳しくなるのに伴い帰郷し、原爆に遭った。「夏の花」はその年の12月に完成し、二年後の昭和22年に発表された。

 

 「夏の花」は高校の国語の教科書に収められており、指導要領が変わった今も「文学国語」のいくつかの教科書に採択されている。「生徒らと読みすすめゆく」とあるので、授業中、丁寧に、かつ、確実に読解していっているのだろう、一緒に。歌の作者は高校の教員である。

 その時に思ったのだ、「題名はさう平凡がいい」と。この「は」に着目する。「は」は他と区別するときに使う助詞。つまり、「平凡」ならざるものの中で、せめて題名ぐらいは平凡であってほしいということが、言外に示されているのだ。

 淡々とした筆致の「夏の花」だが、描かれているものは凄まじい。

 

湯気ゆげの立昇っている台のところで、茶碗ちゃわんを抱えて、黒焦くろこげの大頭がゆっくりと、お湯をんでいるのであった。その尨大ぼうだいな、奇妙な顔は全体が黒豆の粒々で出来上っているようであった。            (『夏の花』原民喜 集英社文庫)

死体はおい文彦ふみひこであった。上着は無く、胸のあたりに拳大こぶしだいれものがあり、そこから液体が流れている。(中略)次兄は文彦の爪をぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去った。涙もかわきはてた遭遇であった。      (同)

 

 原本人が見たもの、出遭った光景が小説として写し取られているのだが、それがもう壮絶である。「平凡」の対極だ。さらに、書かれていることの背後にも激烈な痛みがあり、おびただしい死があり、痛切な悲しみがあろう。そういうものを表現したとき、タイトルとして何と名付ければ良いのか。ある種の失語のような感覚、そこにかろうじて与せられるものが「夏の花」だったか。

 歌の主体もそこを感じている。平凡なタイトルでなければ、嘘っぽくなってしまう感触をである。「さう」はこの過酷な小説を受け止める側としての率直な感慨でもあり、「夏の花」と名付けた原民喜への同感でもあるだろう。創作者として、文学をものするものとして、このようなものにタイトルを付けるときの苦しさを、何か、皮膚感覚で理解するところがあったのだ。

 また、「生徒らと読みすすめゆく」ということを考え併せると、この「平凡」にはさらに異なる色味が付け加わる。たぶんまだ人生の荒波を本当には知らない生徒たちへの思い。平凡のなかにこそ計りしれない悲しみが隠れていること、そういうものが人生であること。そんな心の中の、言葉にもならないメッセージがかすかに漂っているのを感じる。

 

 もっとも、この小説のタイトルは当初、「原子爆弾」であったそうだ。もうその通りの題名なのだが。しかし、GHQの検閲も考慮し、改めて選ばれたものが「夏の花」だった。

 

 小説の中の「夏の花」は直接には原爆と関係はない。原爆投下の2日前、8月4日に亡き妻の墓に供えるために求めた黄色い花が「夏の花」なのだ。今となってはその何気なさと、だからこその柔らかい鮮やかさが印象に残る。二日前の花。まだ二日前の花だった。

 

その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小弁こべん可憐かれんな野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった。         (『夏の花』原民喜 集英社文庫)

 

夏の花。その無名性。「平凡」だったたくさんの人々とも重なって。

 

 

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