ラップされ鮎は一点見つめおりその一点を家まで運ぶ

川野里子『歓待』砂子屋書房,2019年

鮎は季節感の強い魚だ。
漁が解禁となる六月から秋口にかけて出回り、初夏の若鮎、秋の落ち鮎と時期によって呼び名が変わり、その味もいくばくか変化する。
一首は、おそらくスーパーなんかで売られているプラスチックトレーにいれられてパックされたものなので、養殖の鮎かも知れないけど、それでも出回る時期は天然物に準じることが多い。一般的なスーパーなら、いつ行っても鮮魚売り場に鮎が並んでいるということはあまり無い。やはり、鮎は初夏から秋にかけての味覚だと思う。

鮎は小さい魚であり、魚の姿のまま食べてこそという部分があるので、切り身ではなく生前の姿のまま売られる。一匹、二匹がプラスチックトレーに入れられてラップをされ鮮魚売場に並べられる。ラップ越しに何匹のもの鮎の目が見える。鮎はたぶん目蓋を持たないので、みな一様に目を見開いている。それが見開かれた目である以上は視線があり、視線の先がある。鮮魚売場ではたくさんの鮎がラップ越しに、店内のある一点を見つめているように思われる。

上句は静止したような時間が描かれている。
三句目でプラスチックトレーに入れられているであろう鮎の視線に収斂する。鮮魚売場のひんやりとした空気の中で、死んだ鮎の視線を主体は感じている。鮎は傷みやすいぶん、捕られてから素早く店頭に並ぶ。生きているかにも見える死んだ鮎が視認できる形でパックされているさまは、どこか葬儀の際に棺にいれられた死体のようにも思われる。
「一点見つめおり」という少し大仰にも感じられる表現が、食材としての鮎から詩としての鮎へ、幾らか位相を変えさせる。

下句で時間が動きだす。鮮魚売場の画像から鮎を持ち帰る主体の映像に切り替わる。「運ぶ」という結語が動的な印象を強める。ひんやりとした鮮魚売り場から夏の屋外へと場面は展開する。上句の棺のイメージが微かに残っていて、出棺の場面も想起される。

「一点」という語が、四句目でもう一度登場する。主体は鮎の視線が印象に残り、その視線を運んでいると感じているのだろうなのだろう。
ただ、二度目に登場する「一点」には、「その」の一語によって強い負荷が掛かっていて、もしかしたら、この「一点」が意味するのは現在の鮎の視線の先ではなくて、生前の鮎の視線の先の「一点」でもあるのかもしれないなと思う。それは、生前の鮎の視覚が機能していた頃の一点であり、人間が知ることが難しい水中の景色が映る。そんなことを考えると、夏の川の涼しげな印象が流れ込んでくる。

鮎を買い、持ち帰る。一首が提示している状況は単純で、見知った場面、見知った状況だとは思う。ただ、ここは私の知っている鮮魚売場ではないかも知れない、というような不思議な印象が、どこかで生じているような気がする。
それは、日常で使用する語彙からほんの少しだけずらされた言葉で一首が構成されているからかも知れない。それは、日常の中で認識せずに過ごしている〈死〉が、オブラートに包まれて〈死〉とわかる形で提示されているかのようだ。

往生とはなべてを手放し迎ふる死 横死とはなべて捥がれゆく死か/川野里子『歓待』

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