体温も気温もさんじふろくどごぶ ひらがなだけですごす暑き日

水上 芙季『静かの海』(柊書房  2010年)

 

 今年の夏の暑さはこれまでとは違う、などという声が聞かれるようになったのは、いつの頃からだろう。近年は、夏が来るたびに言っている気がする。2023年も連日暑い。先日は福島で最高気温が40度に達したそうだ。いやはや。「地球沸騰化」という国連事務総長の言葉も、げに、もっともである。

 

 こちらの歌でも「体温も気温もさんじふろくどごぶ」という日があった。 36.5度。相当に暑い。だが、ふと、体温と気温が同じなら「ちょうどよい」はずなのになと、素人考えで思ってみたりもする。けれど、そうはいかないということも経験としてわかる。気温25度を越えればもう汗を出し、一生懸命冷やそうとしている体の機能とは、きっと切実なものだ。体の表面はともかく、芯の方の温度が低くなくては危ないのだろう。

 

 体温と気温がイコールということは平衡状態にあるということだが、さらに、「体温も気温も」と「も」を重ねたのちに「さんじふろくどごぶ」と言ったとき、双方が溶け混じる感覚がある。つまり、体の内外の隔てがなくなるのだ。外なのか、内なのか、私なのか、空気なのかが分からなくなってしまう。「じ」「ど」「ご」「ぶ」の濁点のざらつきを残しつつも、かなり溶け合った状態……。旧仮名であることも強く作用している。「じふ」……「ふ」の役割は大きい。この「ふ」をどう理解すればいいか、一瞬、読み手を混乱させるのだ。言葉が解体され、限りなく意味を薄めながらひらがなとして連なる、そのことが、体温と気温が一緒くたになる感触と結び付く。

 

 

 そしてその「ひらがなだけ」で今日は過ごすのだ。これはどういうことか。

 暑いと何も手につかない。頭がぼやっとしてくるし、外出も外作業も億劫になる。

 「ひらがなだけですごす」というのは、一つは論理的な思考を止めるということだろう。漢語でもってがっちりと考えるようなことはしない。柔らかいことだけ。それで何とか暮らす。

 そして外出はしない。ごくプライベートなスペースでぐだぐだするのだ。服だってかちりとしたものなど着たくない。涼しいのが一番の、しどけない薄着でいる。仮名とはそもそも、フォーマルな世界の反対側にあったものだ。

 

 古来の「真名」に対する「仮名」のイメージを巧みに取り込みつつ、難しいことは考えずにだらりと過ごさざるを得ない「暑き日」というものが、字面から、また、音質から感受される一首である。暑い。

 

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