こんなにもきれいにはずれる翅をもつ蟬はただひとたびの建物

佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』角川書店,2006年

蝉は不思議な生き物だと思う。

何年も土の中で幼虫として過ごし、短い時間を炎天下で過ごし、次の世代の生命を残すとあっという間に死んでしまう。土中で過ごす時間の長さと、太陽の下で過ごす時間の短さによって、蝉ははかない存在として認識される。夏の象徴として、あるいははかなさを込めて、蝉を読み込んだ歌は少なくはない。
ただ、幼虫の期間があまりに長いので、その寿命を考えれば案外蝉は長生きな気もする。六年間を地中で過ごしたとすれば、蝉を追いかける幼児よりも追いかけられる蝉の方が年上であり、日本ダービーに出走するどの馬よりも鳴いている蝉の方が年上だ。
蝉はそんな風には感じさせないのだけれど。

蝉は脆い。そもそも昆虫は脆いのだが、蝉は一等脆く感じる。それは体感としても言えるだろうし、蝉の持つはかないイメージの影響を受けてもそう思う。力尽きた蝉の亡骸が道端で朽ちてゆくのを見ることもひと夏に何度かあって、その印象を強める。

掲出歌は様々な状況が想像される。乾いた蝉の死骸から翅が外れたのか、あるいは生きた蝉の翅を毟ったのか、蟻が蝉に群がって翅を運んでいるのか。いずれにせよ、蝉からきれいに翅が外れている。

蝉は建物だろうか。辞書的な意味ではもちろん建物ではない。蝉は脆い生命体であり、短い時間しか太陽の下に存在できない。蝉と建物の間にはずいぶんと距離があるように思う。
ただ、建物という比喩が蝉にそぐわないとはどうしても思えない。建てられるまでに長い時間がかかるところ、どことなく部材が組み合わされた感じがするところは建物と似ているかもしれない。また、道端で乾きながら朽ちていく蝉は、どこか廃屋と重なる。住人を失った家はすんなりと朽ちていくが、その様は魂を失った蝉とどこか似ている。

「こんなにもきれいにはずれる翅をもつ」という上句は、蝉にモノに近い印象を付与し、「建物」という比喩の納得感を強める。「ただひとたびの」という形容によって、蝉はまた生命感を付与されるのだけど、どこか上句のモノに近い印象を引きずるのだ。

そんな感じで理屈をつけようと考えると、いくらかの解釈が湧いてきて、それらしくも感じる気がするのだけれど、そんな理屈を気にしなくても、やはり蝉は建物っぽいように思う。その形状や寺社で出会うイメージ、固くて脆い感じ、そういったものが総合されて、一首が提示する〈蝉が建物〉であるということが直感的に納得されるような気がする。

成虫になった蝉は次の世代を残してあっという間に死ぬ。残された幼虫は数年を地中で過ごし、また成虫として太陽の下で鳴き、子を残し、死ぬ。蝉という存在はそのサイクルを維持することで種としてながらえている。それは、〈蝉〉という存在が世代を超えて住みかわっていくようにも感じられる。この世代の蝉から、次の世代の蝉へ。「いちどきりの建物」の住人は、次の建物に引っ越してしまったのかもしれない。

そんなことを考えていると、生き物というのはそもそもどこかしら不思議なものなのだろうと思いはじめてしまう。

頭蓋を神殿となし枕辺にまばゆきひとを待ちてひさしき/佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

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