話す程に食ひ違ひ行くこの電話早く切らむと受話器持ち換ふ

佐藤東子『風色』本阿弥書店,2014年

電話というのは難しいものであると思う。
対面のコミュニケーションであれば、表情や身振り手振り、醸し出す雰囲気など情報を伝達する手段が多くある。コミュニケーションが上手くいかない時の対応も、相手の話を遮る、訂正する、やんわりと気づいてもらう、沈黙するといった具合に、相手との関係にもよるのだけれど、比較的様々な方法が取れる。

電話は声しか手段がないので、細やかな感情を伝えるのはなかなか難しい。抜本的なコミュニケーションの齟齬があるのであれば、まだ訂正をすることができるが、小さな認識の齟齬をただすのは時に困難だ。
これがメールのような文字でのコミュニケーションであれば諦めもつくし、そもそも細やかコミュニケーションを行う前提にない。声でのコミュニケーションが身体性を放棄しておらず、タイムラグがほとんどないぶん、電話での会話において小さな齟齬が重なるとフラストレーションが溜まる。
相手が一方的に喋っていて何を言っているかわからないこともあれば、滞りなく会話ができていたと思っても誤った情報が伝わっていることもある。

掲出歌の状況はなんとなくわかるような気がする。
「話す程に食ひ違ひ行く」とあるので、電話での会話に小さな齟齬が生じて、それが積み重なっているのだろう。最初は小さな違和感だったのだろうが、それが積み重なり、違和感を齟齬として認識したのだけど、上手く訂正ができない。会話がだんだんしんどいものになっている。

主体は電話を早く切りたいと思う。電話を切ると宣言できれば話ははやいが、それが難しい状況なのだろうか。そんな主体の起こす行動は「受話器持ち換ふ」というささやかなものだ。奇跡的に、話をあまり丁寧に聞いていないのが伝わって切り上げてくれるかもしれないが、なかなかそれは難しそうだ。「話す程に食ひ違ひ行くこの電話」と思っているのは主体だけで、なんとなく、相手はコミュニケーションは問題なく成立していると思っていそうなので、主体の意図は伝わらず、というか受話器を持ちかえているのにも気づかれず、もうしばらく電話は続きそうな気がする。

受話器を持ちかえること自体は、実際的に必要な動作に近い。「早く切らむ」と思った主体にできることは、「受話器持ち換ふ」ことくらいだ。それは、聞く意思のあまりないことを伝える、どちらかと言えば対面での意思伝達手段に近いような気がする。

まあそもそも、受話器を持ちかえたのは電話を早く終わらせるためではないだろう。〈早く電話を切りたいと思う〉→〈受話器を持ちかえる〉とたまたま続いただけで、両者に直接のつながりはない可能性の方が高い。

それでも、こうして一首の歌として提示されると、論理的な関係が薄かろうとも、どこかで両者に繋がりを見出してしまう。電話を切るために主体ができることは無さそうな感じが余計にそう思わせる。
受話器を持ちかえることは、早く電話を切るための主体にできる唯一の行動な気がして、妙な気がしつつも納得してしまう。

この場合、受話器を持ちかえることは、限りなく祈りに近いのかもしれないなと、妙なことを考えながら。

苛立てる心のままに生たまごの盛り上がる黄身攪拌したり/佐藤東子『風色』

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