長雨の明けてとんぼの高く飛ぶいのち余さず秋空をゆけ

久我 田鶴子『転生前夜』(牧羊社  1986年)

 

 秋の長雨  いわゆる秋雨前線によって、夏の終わりから秋にかけて雨が断続的に降る。それほど激しいものではない。しとしとと一雨ごとに、残っていた夏の粘っこさが消え、軽やかになっていく感覚だろうか。

 長雨の期間が明けると、いつしかすっきりと空が高い。空気が澄んでいる。ああ秋が来たということを、実感する瞬間である。

 

 「とんぼ」も空を飛んでいる、高いところを。この、「長雨の明けてとんぼの高く飛ぶ」は、気分的なものだけではなく、割合、実証的なことのようだ。空気中の水分が多いと、水気が羽に付き、羽が重くなるので、とんぼの餌になる小虫たちが低いところを飛ぶそうな。だから、とんぼも低いところを飛ぶ。つまり、「高く飛ぶ」ということは、天気が良くて空気がからっとしている証拠ということになる。

 

 そのとんぼに向かって「いのち余さず秋空をゆけ」と呼びかける。この命令形が厳しくも温かい。「いのち余さず」は直裁な言いぶりで、昆虫のいのちのはかなさが、逆に、ここで改めて浮き上がってくる。

 ほとんどのとんぼは冬を越せないだろう。蟬ほど寿命は短くはないけれど、成虫になってからは数ヶ月のいのちだろう。しかも、大方は寿命を全うできるわけではなく、カマキリや鳥などに食べられたり、雨風にやられたりしてしまう。「いのち余さず」というのは、実はとても難しいことなのだ。

 

 そしてこの率直な物言いは、やはり、返す刀で人間にも戻ってくる。「いのち余さず」生きているのかと。……うーん、難しい……。

 

 長雨の間は心ゆくまで飛ぶことができなかったから、今からがとんぼの本領発揮だ。

 トンボの目に映る秋空。

 秋空をゆけ。ゆけ。

 

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