靴ずれを見むと路上にかがむとき雨の路上の音量あがる

睦月都『Dance with the invisibles』角川文化振興財団,2023年

雨が降っている。主体は屋外を歩いていて、靴擦れが気になり、雨が降っている路上でその状態を確認する。描かれているのはなんでもない場面。日常的にしょっちゅうあるわけではないけれど、そんなこともあったかも知れないと思えるし、状況はクリアに想像できる。〈雨と靴ずれ〉、どちらも日常の枠内の言葉なのだけど、取り合わさると日常と非日常の境界に近づく感じがして少し不思議だ。

上句では主体の動作が提示される。靴ずれの存在を認識していた主体が、靴ずれの状態を確認しようとしてかがむ。「路上」の挿入によって、そこが屋外であることが確定する。靴ずれの状態が気になってわざわざかがんだ感じが出て、靴ずれによって生じる痛みや地味なストレスが思い出される。四句目の「雨」の語によってその印象は増す。

靴ずれを確かめるため、雨の降る路上でしゃがみ込んだら、地面に近づいたことによって雨が降る音が大きく聞こえた。一首が提示している大枠としての意味内容はそのようなものだとまず思う。それを表すのであれば、下句において散文的に適切な語順は、〈路上の雨の音量あがる〉だろう。下句には軽い引っかかりを感じる。
「雨の路上の音量あがる」とすることで、「音量」は「雨」よりも「路上」に強く結びつく。主体の耳が地面に近づくことで、雨が路上を打つ音は少し大きく聞こえる。同時に、「雨の路上の音量」は、行き交う人の足音や車が水気を含んだ路上を走る音なんかも射程に入れる。
それまでも聞こえていた音が、かがむことで変化する。「上がる」の語によってそれは連続した世界であることがわかる。世界の音量のツマミがいじられて、「雨の路上の音量」がすうっと上がっていくような印象だ。

地面が近づくことで雨の音量が上がるという発見はそれ自体魅力的だ。ただ、〈路上の雨の音量あがる〉であれば、提示されるのはある種の発見のみであろう。「雨の路上の音量あがる」とすることで、一首の世界には奥行きのようなものが生まれる。二句目の直立した状態での「路上」と、下句のかがんだ状態での「路上」で聞こえる音の変化。雨という気象条件によって増幅したその変化はかなり雑多なものだ。そして、こちらの表現の方が普段認識している世界に近いものが提示されているように思われる。

一首が提示している世界は既知のものだと思う。ただそれは、普段言語化がなされない類のものだ。こうやって言語化してもらったものを読むことで、認識できる世界の幅が少し拡がった気がして、小さくうれしい。

秋の夜を喚きまはれる猫いれて猫の重量が部屋に加はる/睦月都『Dance with the invisibles』
鍋に肉ゆつくりと煮てゆくときにひととき水は匂ひ濃くせり
花のやうな奇妙な地名も吸はれたり郵便ポストの中の無限へ
心にも客間がほしい 客のない夜も贋作の絵などをかけて
煙草吸ふひとに火を貸す 天国はいかなる場所か考へながら

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