山川 藍『いらっしゃい』(角川書店 2018年)
前後の歌からすれば、学生時代を詠んだものだろうか。
「わたくしはわたくしの王」 この考え方は、本当にそうなのだけれど、日常の中では忘れてしまいがちだ。わたくしが従うべきは、わたくしの声のはずなのに、自分を尊重できず、別の誰かの基準に沿って生きてしまっている。
王になるとは、例えば上司の言うことを聞かないとか、わがままに振る舞うとか、そういうことではない。他者と比べない、他者におもねらない、堂々と生きる許可を自分に与える、自分をねぎらい許す、そういうことではないか。
だが、周りに立ちはだかる世間、社会、他者の有する価値観は、絶対的で強いものに思える。少なくとも自分のものよりはそうであるように思える。だからこそ、「わたくしはわたくしの王」とわざわざ言うのだ。このフレーズは自らへの鼓舞であり、言挙げである。
と、大きく述べてきたけれど、では、ここで、自分が自分の王であることを再確認したのちに何をするのかと言えば、それは「ペンの選別」なのだった。この選別は、例えば、ペンケースにいっぱい入っているペンの中で、どれを残し、どれを外すかを決定するということだろうか。そして、お気に入りの順に並べる、そのようなことだろうか。できる。わたくしにはできる。なぜなら、「王」なのだから。
この「王」と「ペンの選別」との落差が、一首の見所である。ペンは選別されても文句を言わない。それはペンだからということもあるが、王のもとにあるからだ。王は世界の規範となり、決定権を持つ。
しかし、その「選別」は、選別される側の「わたくし」というものも、刹那、ちらりと意識させる。言わずもがな、私たちは誰かに選別されながら生きている。その事実があたりを取り巻く中での「ペンの選別」という構図になっているからだ。入れ子のように。可愛くも厳かな王のお仕事。その大仰さの中に哀感が混じる。
一方、「さいはて」は「王」という言葉と結びつきながら、現実味を薄くしていく。おとぎ話の地の果てのような遠い静かな空間を瞬時に作り出す。
そして、王を孤高の人に、ペンの選別を儀式めいたものにする。
もちろん、単に、この選別の場所が一番端の校舎だったということなのかもしれないが、それでも「さいはて」という言葉の作用は小さくない。
「わたくしはわたくしの王」 口ずさんでしまいそうだ、ペンの整理の時には。