大風にいきなり揺れる公孫樹いちょうの黄この世の夢はこの世にて見よ

佐伯裕子『感傷生活』砂子屋書房,2018年

強い風が吹いて銀杏の葉がそよいでいる。風の音と葉が風にそよぐ音が聞こえる。そのうちのいくつかの葉は風に舞っている。情景をイメージすると、もう秋も闌という感じがする。

像を結びやすい上句だが、語の選択がひとつひとつ面白い。
「いきなり」の挿入によって、強い風がずっと吹いているのではなく、突風がどうと吹いた感じが伝わってくる。〈突風〉、〈強風〉など、初句の「大風」の候補はいくつかあるが、「大風」の語感は柔らかく、銀杏への影響に暴力的な強さを感じない。どこか、単純な事実の伝達に重きをおいていない感じがする。公孫樹のイメージへの連なりも滑らかだ。
〈銀杏〉や〈イチョウ〉ではなく、「公孫樹」の表記が選ばれていて、硬くしっかりとした樹木としての銀杏の樹が想起される。「公孫樹」の黄とあるので、風が吹いて揺れているのは葉であろう。〈葉〉ではなく「黄」と抽象度が上げられることで、揺れる葉の細部というよりは、銀杏の黄色い部分がぼんやりと一体になったようなイメージが想起される。また、黄の音は樹にも重なり、「公孫樹」の表記もあいまって風に吹かれる樹木全体の様子が感じられる。

「この世の夢はこの世にて見よ」は魅力的なフレーズだ。「この世」のリフレインによって、一首の裏面にびっしり張り付いている〈死〉の気配が感じられる。生の側を指向する結句の言い切りは強い。

ただ、一首に暗いイメージはあまり無い。それは、「大風」、「いきなり」、「公孫樹」、「黄」と上句においてほんの少しずつ現実の描写からずらされていて、意味を伝達する上での最良の選択があえてとられていないためだろう。下句に至って描く世界の抽象度が上がった時に、上句は夢幻のような印象に切り替わる。ある意味で、あの世で見る夢のようにも、あの世の景色にも感じられる。

具体的な景と抽象的な景が溶けあったような世界の中で、銀杏の黄色い葉が、ただ戦いでいるのだ。

まっすぐに歩まんと来てかすかなる狂いを感ず空へゆく坂/佐伯裕子『春の旋律』

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