梅内美華子『真珠層』(短歌研究社 2016年)
公園には様々な遊具がある。ブランコ、滑り台、シーソー……。そしてここには、「パンダ」も置かれていた。「すりきれた」とあるので、鑑賞物ではなく、乗って遊べるパンダだろう。どしっとした動かないタイプかもしれないが、バネで上下したり、前後左右に揺らしたりできるものもある。
動物や乗り物の絵が描いてあるこのような遊具が、子供は好きだ。それらと共に、冒険しているような気分になるのだろう。
そして、いつか自ずと好みも分かれてくる。ライオンに乗りたい子、ウサギに乗りたい子、消防車に乗りたい子、飛行機に乗りたい子……。「パンダ」も、人気があるのではないだろうか。
動くタイプだとすれば、自分自身でゆったりとたゆたわせることも、激しく揺さぶることもできる。小さい子も遊べる。他の遊具に比べれば、動きは地味だけれど、あれば必ず跨ぎたくなる、そういうものであろう。
だが、多く跨がられるということは、それだけ劣化も早いということだ。あの表面は強化プラスチックだろうか。手で持たれる部分や、お尻や足が当たる部分の摩耗が特にひどいのだろう。パンダであれば、白と黒の樹脂。耳の「黒」や、胴の「白」などは剥がれていそうだ。
その状況が、この歌では、「〈みんなのもの〉のむごさの中にすりきれた」と表されている。ああと思う。公園は字のごとく「公」の場所であり、遊具もみんなのものだ。たくさん訪れられ、たくさん触られ、たくさん遊ばれてこそのものだ。だが、その数が「むごさ」を呼ぶ。「数」はそれだけで力を持つ怖いものである。百人、千人、万人に跨がられれば、自ずとパンダは衰耗する。
加えて、「みんなのもの」であるということは、自分ひとりのものではないということだ。そのとき、人はどんなふうにその遊具を扱うだろう。自分のものだったら大切に触るところを、野外だし、テンションも高くなっているし、いつもよりも雑に取り扱うことはないだろうか。そうしても構わないような気持ちはないだろうか。そして、子の親も、みんなで使うものだからと、より一層気を遣って傷つけさせないように注意させているだろうか。それとも、多少ぞんざいに扱っても、誰がやったかわからないし、「みんな」もそんなふうに使っているしと感じているだろうか。
「むごさ」というのは、そういう気持ちを受けている。「みんな」の中の匿名性が白々しい顔をして浮き上がってくる。
そんなパンダを見ているのは、大人の目だ。夕方、子供たちは帰ってしまい、大人の時間が来ている。このすりきれた「むごさ」がわかるのは、大人になったからだ。様々な「みんな」ということのむごさを経てきた大人だからこその感じ方なのだ。
「夕べに沈む」パンダ この「沈む」は少し重苦しい印象をもたらすけれど、同時に安堵感も連れてくる。もう、子供は来ない。背中に乗る者は誰もいない。夜の中では休息できる。すりきれたところを休めることができる。おやすみパンダ。パンダにまもなく夜が来る。