たましひのはうと抜けゆく口に似る靴を買ふため脱ぎたる靴は

谷とも子『やはらかい水』現代短歌社,2017年

お店での一場面。主体は靴を買いに来ていて、靴を試着している。履き慣れた靴を履いて、新しい靴を買いに。その状況であれば、主体の意識は新しい靴に向かうと思うが、一首が描くのは買い物に履いてきた古い靴の方だ。

上句では、脱いだ靴の様態が「たましひのはうと抜けゆく口」に似ているとして提示される。魂が抜けてゆく口は実際には見たことがないものではあるのだけど、なんとなく像が結ばれる表現だ。漫画などのイラストでは魂が口から出て行く状況はしばし描かれる。魂では無いのだけど空也上人像のような虚脱して口から何かが放たれる表情も思い浮かぶ。

〈魂の抜けた〉ではなく、「抜けゆく口」なので、今まさに魂が抜けている状況だ。靴の穴が口に見立てられていて、そこからすうっと魂が抜けていく。さっきまで履いていた主体の体温が抜け、履いていた人の気配のようなものが気化してゆく。古い靴から新しい靴への感情の移り変わりも感じられる。

靴を売っているその場所にはたくさんの靴が存在しているが、そのほとんどは新品の靴だ。新品の靴には魂が存在している感じはあまりしない。その中で、主体の履いてきた靴は異彩を放つ。もちろん、店員や他の客の靴も新品では無いのだけど、履かれているためにその足を入れる穴を晒していない。
新品の靴に囲まれている履き慣れた靴。魂が可視化されてもおかしくは無いような気がしてくる。
もしかしたら、主体は靴を買い替えたのち、履いて来た靴は履かなくなるのかも知れない。また、すぐに履かなくなるわけでなかったとしても、その時は必ず訪れる。「買ふため」とあるので漠然と靴を試着しているというよりは、買い替える意思がいくらか感じられる。

「似る」というすこし控えめな動詞が斡旋されることで、一首は現実に繋ぎ止められる。あくまで主体はこの世界のどこかの靴屋で靴を選ぶ。そしておそらく、選んだ靴を買う。新しい靴を履き、前履いていた靴のことはいずれ忘れてしまうだろう。

ただ、「たましひのはうと抜けゆく口」似たその靴の表情はいくらか長く主体の心に残りそうだ。そこには、役割を終えてゆく靴への愛惜が感じられる。

雪になりさうな雨なら待ちませう手のうへにもつとかたちが欲しい/谷とも子『やはらかい水』

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