「何もなかった所に建ったね」と声のするかつては萩の咲きていたりし

永田 淳『1/125秒』(ふらんす堂 2008年)

 

 新しい建物ができていた。以前は広い原っぱか、または、ぽかっと空いていた一区画に。

 建物というのは意外とすぐにこしらえられるものだろうか、しばらく訪れていなかった所を通りかかると、思いがけず、見たことのない家や店が存在していて驚くことがある。また、一方で、建造をやめてしまったのかと思わせるような、何年もかけてやっと終わる施工もある。

 

 「何もなかったところに建ったね」というのは第三者の声だろう。主体の近くにその声を発した誰かがたまたまいたのだ。その、「何もなかった所」という言い方に主体は異議を唱えたい。何もなかったわけではない、かつては萩が咲いていたのだと。

 

 萩は、群がって生える。枝にはモサモサと葉が付く。そして、秋には赤紫や白の小さい花をつける。可憐で綺麗だ。秋の七草の一つでもあるし、万葉集で最も多く詠み込まれた植物でもあるし、たとえば、落合直文もとても萩が好きで、庭には多くの株が植えられ、萩之家主人と呼ばれるほどだった。古来より好まれてきた風流な植物。その美しさを主体は知っていた。そして秋にはこの場所に咲いた萩を眺めたこともあったろう。

 

 この萩はきちんと剪定されたものではなく、他の雑草の中に混じってわあわあと広がりながら咲いていたと思われる。そう「雑草」。「雑草という草はない」とは牧野富太郎の言葉だそうだが、要は、どのように見るかという、その粗細の問題なのだ。一つ一つの草と見れば「雑草」ということはない。「何もなかった所」と言った人には、この萩たちが雑草に見えていた。そして雑草は、「何もなかった」ものにカテゴライズされる。あるのに、ないもの。時に、ものすごくあるのに、ないもの。しかし、主体にはそうではなかった。「萩」が見えていた。

 人というのは本当に見方が違うものだと思う。同じものを見ても、違う捉え方をしている。

 

 だからこそ、一括りにして、「何もなかった所」というのは違うよと感じたのだ。知らず知らずのかすかな暴力性への、ささやかな抵抗の歌とも読めると言えば大袈裟だが、少なくとも、「萩」に気付かなかったなんて、残念だったね、つまんなかったね、という気持ちはあっただろう。

 

 そこは、何でもないように見えて、誰かの大切な場所だったかもしれない。時々、ふらりとやってきて、しみじみと物を思ったところかもしれない。そういうこともある。

 

 何かを非難している歌というわけではない。

 ただ。知らないうちにこんなふうに括ってしまっていることがあるなあと。そういう思いが兆すところも含めて、少し淋しい歌である。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です