わが墓は要らねど花と酒一合ささげ墓前に身をかがめたり

安田純生『でで虫の歌』青磁社,2002年

墓参の場面。一首が提示する矛盾する内容に妙な納得感がある。

花は万人が万人に供えるものだが、酒は必ずしもそうではない。前提として、故人が酒好きだったのだろう。「酒一合」はまさか一合徳利ではないだろうから、ワンカップのようなカップ酒を想像する。〈ワンカップ〉のように商品名ではなく、缶ビールのような一般的なものでもない、あえて六音の字余りにしてまで挿入された「酒一合」という措辞から、なんとなく主体も酒飲みであるように感じられる。

主体は自分の墓は要らないと考えている。死後にまで金をかけてわざわざ建てなくてもよいとか、死んだらそれまでだからとか、先祖伝来の系譜から外れたいとか、死んでまでひと所に縛られたくないとか、墓参に来る人などいないとか、理由はいくらでもあろう。そういう考えもあると思うし、個人的には共感もする。
ただ、主体は墓前で故人を偲んでいる。花を買い、恐らく故人が愛したであろう酒も買い、丁寧に墓参をしている。「墓前に身をかがめたり」という表現からは、故人への思いや、墓前での主体の敬虔さが滲む。その時間は、おそらく主体にとって大切なものだろう。
それは、墓は要らないという主体の考えとはどこか矛盾する。「要らねど」という接続が句割れを伴って二句目に配されていて、いくらか心が揺さぶられているかのように感じられる。

少し前に、テノール歌手の秋川雅史が歌ってヒットした『千の風になって』の歌詞にあるように、墓に故人が存在するわけではない。遺骨が納められているのだとしても、それは人格を持った故人そのものではない。だからこそ、自分の墓は不要だと思ったりする。
しかし、故人を偲ぶ場所として、墓は大切な場所でもある。故人が愛した酒を供え手を合わせながら、主体はそんなことを考えたのかもしれない。

そんな思考の先には自分の死後の長い長い時間が存在する。自分に酒を供えたいと思う人がいるのならば、墓はあってもよいのかもしれない。墓参によって生じ、一首に昇華されることで掬われた感情がそこには確かに存在する。

もどるべき場所あることのうとましく日暮れに歩む川沿ひの道/安田純生『でで虫の歌』

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